2006年(平成18年)11月20日号

No.342

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追悼録(258)

反公害学者、宇井純さんを偲ぶ

  水俣病を告発した宇井純さんがなくなった(11月11日・享年74歳)。宇井さんを知ったのは東大の助手をしているころで、熊本の水俣病問題の報道について「新聞記者も半年ぐらい現地を見てものを言って欲しい」と注文をつけてからである。宇井さんは昭和35年ころから水俣病を告発するレポートを書いていた。水俣病が初めて新聞にでたのは昭和31年7月1日の「熊本日日新聞」である。1段11行の記事で「水俣に奇病患者が8名でた」と報じた。当時は「水俣奇病」といわれた。原因ははっきりしなかった。「伝染病説」「マンガン中毒説」「農薬説」「無機水銀説」とさまざであった。だが、現場の人たちは「チッソの工場の排水があやしい」といっていた。現にチッソの付属病院長、細川一さんはネコの実験で水俣病発症に成功、排水が原因と知っていた。立場上公表することは出来なかった。昭和34年はじめ、熊本大学医学部研究班が「有機水銀説」を発表した。すると、東京の大学の一流学者から動物が腐敗する際に生じるアンモニア化合物の中毒ではないかとする「アミン説」や「腐敗物質説」が出された。現在でこそ原因はチッソ水俣工場の排水とわかっているが、当時は原因不明であった。新聞は両者の見解を載せざるを得ない。真実は唯一つである。いくら客観報道だからといって「ウソの見解」を載せるわけにはいかない。しっかりした裏づけを取らねばならない。公害報道では現場に半年くらい腰を据えて取材をし、真実を突き止めねばならないと宇井さんは強く指摘したのである。
 日本の公害第一号は足尾銅山である。明治32年9月足尾銅山鉱毒被害農民7000人が上京、政府へ陳情している。挙句の果てには衆議院議員、田中正造は明治34年12月明治天皇まで直訴に及んだ。それまでに議会で10年にわたり足尾銅山鉱毒問題を政府に質しと言うから立派である。その鉱毒の被害を蒙った栃木県谷中村に宇井さんの祖母が住んでいたというのも何かの因縁で、宇井さんが公害問題を使命と感じても何の不思議はない。田中正造は大正2年9月4日死去、享年74歳であった。遺品のなかには日記帳とともに「新約聖書」が出てきたという。田中正造が愛した聖書の言葉は何であったのか。「禍なるかな、偽善なる学者、パリサイびとよ。汝等は、白く塗りたるはかに似たり。外は美しく見ゆれども、内は死人の骨と、さまざまの汚れとにて満つ」(マタイ伝23・2)それとも「われはよき羊飼いなり。よき羊飼いは羊のために命を捨つ」(ヨハネ伝10・11)であろうか。

(柳 路夫)

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