2005年(平成17年)5月1日号

No.286

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追悼録(201)

伊東玄朴と種痘所の創設

 真山青果作・十島英明演出・前進座の「玄朴と長英」をみる(4月3日・前進座劇場)。津山恵一(伊東玄朴)と嵐圭史(高野長英)の二人芝居である。真山青果が大正13年に発表した作品。もともと小説家であったが10年の雌伏を経てこの戯曲で復活する。その作劇法は相反する性格を持つ人物を対置させ、その人物の葛藤を通じて二人の心の奥の底を抉り出そうとするものである。玄朴は御用医者、長英は町医者で幕吏に追われる身である。逃走資金を借りにきた長英とにべなく断る玄朴、ともにシーボルトの長崎の鳴滝塾で学んだ親友である。洋書「人民法」を上海から取り寄せながら幕府の目を恐れて封印する玄朴、それをむさぼるように読む長英。長英は語学力が高く、「茶樹の栽培法」「日本の捕鯨法」など11編のオランダ語の論文があり、「医原枢要」内編五巻、「避疫要法」外編七巻を完成させている。開国派の長英に惹かれる面もある。二人の激しいやりとりにそれぞれの人間の生き方がにじみでる。二人の会話の中に種痘の話が出てくる。私には興味深く感じた。玄朴は安政5年(1858年)5月お玉が池の私設の種痘所(東大医学部の前身)を作る。長英は嘉永3年(1850年)幕吏に襲われて自刃(47歳)しているから8年後である。ジェンナーが自分の子供に種痘を行ったのは1795年。日本では鍋島藩の藩医の楢林宗建が嘉永2年(1849年)初めて種痘に成功している。その痘苗を出発材料として全国に広がった。
 大連二中の同級生の桑田忠孝君(平成4年死去)の曾々祖父桑田立斎は江戸時代の蘭法医で、嘉永2年、江戸在住の鍋島藩の藩医であった玄朴より分苗を受け取って活発な種痘活動を行い、生涯を種痘の普及に尽している。幕命を受けて安政4年(1857年)蝦夷地に赴きアイヌの人々6千400余人に種痘を行い、天然痘の惨禍を阻止した。その様子を描いたアイヌ種苗図の模写図が大阪大学蔵や北海道大学蔵のものなど4点が知られている。当時函館奉行、村垣淡路守範正に献上された原図がこれまで所在不明であった。その原図が仙台在住の方が秘蔵されているのがわかり、同級生の大阪大学名誉教授、加藤四郎君が昨年の6月仙台で原図を拝見した。加藤君の話によれば原画は迫力のあるもので素晴らしいものであったという。
 玄朴の種痘所は万延元年(1860年)10月幕府直轄となり、翌年西洋医学所と改称しその取締に任ぜられた。緒方洪庵らが大阪で開いた除痘館は安政5年(1858年)に全国に先駆けて官許されている。伊東玄朴は明治4年死去。享年72歳であった。

(柳 路夫)

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