2005年(平成17年)4月10日号

No.284

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追悼録(199)

松井須磨子の「カシューシャの唄」考

 毎日新聞社会部OBゴルフ会(3月28日)の懇親会の席上で遠藤満雄君が意外な話をした。「大正3年3月26日、芸術座が帝国劇場でトルストイの「復活」(監督・島村抱月)を上演した際、劇中歌として歌われた『カチューシャの唄』(主演・松井須磨子)が大流行してレコードが2万枚売れたということですが、そのころ蓄音機が何台あったのでしょうかね」。この唄は作詞・相馬御風・島村抱月、作曲・中村晋平である。当時無名の松井須磨子を一躍スターにしたのは島村抱月で、明治44年、上演された「人形の家」のヒロインのノラに須磨子を抜擢したのが始まりで『復活』は爆発的な人気を呼んだ。周囲の反対を押し切って二人は一緒に住むようになる。
 ところで、大正3、4年ころ蓄音機が日本に何台あったかという疑問である。雑誌には蓄音機の広告がある(大正2年6月)。値段は米国製15円以上各種、花形喇叭付き23円半以上各種。フランス製40円以上各種、花形喇叭付き40円以上各種、日本製は12円以上などとなっている。レコードの値段もある。製造元によって異なるがレコードは1円半から2円以上である(復刻版「大正大雑誌」より・流動出版)。比較する意味でこのころの成金紳士の和装の値段を見ると、洋傘(8円)鰐皮紙入れ(10円)金側懐中時計・スイス製(200円)舶来中折れ帽子(40円)舶来のラクダのシャツ上、下(80円)ー(明治。大正・昭和『世相史』・社会思想社刊)。
日本のレコード産業の基礎を作ったのは浪花節だといわれている。浪曲師、吉田奈良丸は明治43年から3年間に合計46面のレコードを吹き込んだが、生産が注文に追いつがず、レコード工場は昼夜二交代でフル操業を行ったという(加藤秀俊『一年行事雑記帖』上より)。と言うことは蓄音機も相当普及したと見てよい。
 倉田喜弘著「日本レコード文化史」(東京書籍刊)に内閣統計局の「蓄音機、同部品及び付属品」の輸入データと生産額がでている。明治38年から大正3年までの輸入額は18万円(端数切捨て)である。部品もあるが輸入の蓄音機の値段を15円とすると輸入蓄音機の台数は12000台となる。大正3年の蓄音機の生産額は126000円である。国産の蓄音機の値段を12円とすると、10500台となる。明治末年から大正1年同2年の数字がないからはっきりしないが、大正3年の生産額から類推すれば年産ほぼ1万台と見ていい。レコードが普及しだした明治43年から大正2年までの国産の蓄音機の台数は4万台。とすれば松井須磨子が「カチューシャの唄」を歌った大正3年当時、日本には蓄音機は輸入品も含めて少なくとも6万2500台になる。だから「カシューシャの唄」のレコードが2万枚売れたとしても不思議ではないと言うことになる。
 島村抱月は『緑の朝』の舞台稽古が進められていた大正7年11月5日風邪をこじらせ肺炎を併発、急逝した。享年47歳であった。松井須磨子も月命日の大正8年1月5日、抱月が作った芸術倶楽部で実兄に『やはり先生ところへ行きます』の遺書を残してに縊死、後を追った。享年34歳であった。

(柳 路夫)

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