2005年(平成17年)3月10日号

No.281

銀座一丁目新聞

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安全地帯(103)

信濃 太郎

 60年目の東京大空襲

 NHKスペシャル「東京大空襲60年目の被災地図」犠牲10万人命の軌跡ー焼夷弾32万発の恐怖ーを見た(3月6日午後九時から50分番組)。「被災地図」というのはそれぞれの犠牲者の自宅と被災死した場所を赤線で結んだもので構成されている。たとえば自宅から避難場所に指定されていた国民学校や隅田川・言問橋などへ赤い線が集中している。もちろん自宅近くの防空壕の中で家族全員が死んだ例もある。昭和20年3月9日午後10時30分から10日午前2時30分かけてアメリカ軍が始めて試みた住民への無差別爆撃であった。大空襲開始は午前零時8分。「米空軍機は、先ず下町地区周辺に巨大な火災の壁を作り、目標地域に十分な照明を準備し上で住民の退路を断ち、必死ににげまどう人びとの頭上に、つぎつぎと『モロトフのパンかご』(大型焼夷弾・注・日本の木造家屋爆撃のために製造されたM69焼夷弾)を投下したのである」(文芸春秋編「完本太平洋戦争」・下「東京大空襲 焦熱地獄からの証言」有馬頼義より)。いつもより精度を高めるためB29の高度を従前の9000bから2000bにさげた。徳川夢声の『夢声戦争日記』の3月10日(土曜 晴 温)には「凄観!壮観!美観!  B29が青光りに見える。いつもより低空を飛んでいるので、いつもの3倍ぐらい大きく見える」と表現している。下町を中心に48194個の焼夷弾が130機(一説には123機とある)のB29によって投下された(警視庁調べ)。生と死は背中合わせであった。同じ川、同じ学校のプールにいて助かった者、死んだ者がいる。淡として語る生存者の話に迫力があった。戦争とはこういうものである。住民が巻き込まれるのは当たり前の事であった。イラク戦争での民間人犠牲者の比ではない。
 清沢冽の「暗黒日記」の当日の日記を見ると「浅草、本所、深川はほとんど焼けてしまったそうだ。しかも烈風のため、ある者は水に入って溺死し、ある者は防空壕で煙にあおられて死に、死骸が道にゴロゴロしているとのこと。惨状まことに見るにたえぬものあり。吉原も焼けてしまったと」と記す。また「今日の朝刊にまた陸軍大将二人出来。万骨枯れてニ将功成るもの。彼らは全く傍若無人だ」とある。(注・3月9日付で第15方面軍司令官兼中部軍 管区司令官の河辺正三中将と第1方面軍司令官の喜多誠一中将がそれぞれ大将になっている。何れも陸士19期)今考えても無神経と言わざるを得ない。この日私は42人の同期生とともに陸士59期の士官候補生として岐阜の歩兵68連隊補充隊で隊付き勤務中であった。階級は伍長であった。3月11、12の両日今度は名古屋市が空襲に襲われ、死者519人、負傷者734人を出した。私達の連隊は12日早朝非常呼集を受けて名古屋に応援に出かけている。この時目にした遺体が今でも忘れないという同期生がいる。
 東京大空襲による死者8万3793人、負傷者4万918人、被災者100万8005人、被災家屋26万8358戸であった(警視庁調べ)。

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