2004年(平成16年)9月20日号

No.264

銀座一丁目新聞

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花ある風景(178)

並木 徹

 

嗚呼、特別攻撃烈士銘々記

 陸士56期の山崎勝郎さん(航空・司偵)から「56期・特別攻撃烈士銘々記」を頂いた。大東亞戦争で特攻で戦死した同期生47柱の編成から突入までの記録が書いてある。56期の航空は昭和18年5月627名・満州国軍官候補生14名が卒業している(地上兵科は前年の12月1672名、軍校37名が卒業)。南西方面の挺身体当たり攻撃で戦死者3名、比島方面の特別攻撃による戦死者19名、沖縄方面特別攻撃による戦死者19名、内地及び満州方面の制空特別攻撃による戦死者6名である。時期は昭和19年10月から昭和20年6月までである。戦争は敗戦の色を濃くしだして た頃である。昭和19年6月にはサイパン守備隊玉砕、7月インパール作戦中止、9月グアム・テニアン両守備隊玉砕、10月神風特別攻撃隊編成、レイテ沖海戦、米軍、レイテ島上陸。昭和20年3月硫黄島守備隊玉砕、4月米軍沖縄本島上陸・・・
 特攻の魁となったのは阿部信弘中尉である。昭和19年10月19日阿部中尉を編隊長とする3機はカーニコバル島南方で英海軍機動部隊に体当たりを敢行、空母を大破、大型駆逐艦を大火災のあと撃沈、駆逐艦を轟沈する戦果を上げた。阿部中尉は砲兵科よりの転科、享年22歳28日。当時の戦闘詳報は綴る「たとひ爆弾を携行せざる戦闘機にありても機体自重2トン500に急降下の威力を加え、殉国の大義に透徹せば、機体一如、もって空母以下敵艦轟撃沈、難からずとの信念を確立せり」
 沖縄戦で特攻の第一陣の役目を果たしたのは広森達郎中尉ら9名の「武剋隊」(誠第32飛行隊)の隊員である。大型艦5隻を撃沈、同5隻を撃破した。享年23歳10ヶ月24日。特攻に出る前日(昭和20年3月26日)沖縄の中飛行場で広森中尉は部下8名に話をした。「いよいよ明朝は出撃だ。いつものように俺についてこい。次のことだけはお互いに約束しよう。今度生まれ変わったら、それが蛆虫であろうと、国を愛する誠心だけは失わないようにしよう」軍事評論家の伊藤正徳は「この一言だけは日本の歴史に書き残しておきたい」といった。
 朝鮮出身の崔 貞根(高山昇)中尉は自ら志願して特攻隊長になった。昭和20年4月2日、沖縄本島西海岸の敵艦船を攻撃し、体当たりにより巡洋艦または駆逐艦を撃沈した。享年24歳2ヶ月21日。航空士官学校卒業寸前に同期生の一人に「俺は天皇陛下のためだけに死ぬというようなことはできぬ」と胸の内を打ち明けている。銘々記は「高山少佐(戦死後昇任)は命を賭して国・民族・軍人・命等々多くの問題を提起し残してくれた。その回答を一人一人がせねばならないと思う」と記す。
 特攻で戦死した56期生の年齢は20歳から24歳。ミンドロ島サンホセ沖の敵艦船に突入した敦賀真ニ中尉の中学校時代の同級生、喜田泰臣さんは敦賀の21才8ヶ月に生涯を追い「彼をふくめて全特攻隊員の真情の総ては、自己を犠牲にした至高至純の愛そのもであったことに思い至った」といい「青春の無限の可能性が失われた彼らの空白を今改めて凝視しなければならないのではないか」と私たちに問う。

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