2004年(平成16年)9月20日号

No.264

銀座一丁目新聞

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自省抄(6)

池上三重子

 7月23日(旧暦6月6日)金曜日 快晴

 猛暑の連日で今日もその一日
 東京は39・5度の昨日出会ったとか。女学生の頃を思い出す。扁桃腺でしばしばそのくらいの高熱を出した。男衆の茂さんや満さんが、柳川の町から足台のような四角な氷を自転車の荷台に買ってきた。
 熱が干いた時、庭中に使い残りが会った。
 おが屑のなかの氷塊は唐米袋にさらいにくるまっていた。氷枕や氷嚢は、心配性の父がとりかえを気遣ったのではなかったろうか。
 当時、熱中症という語彙は辞書には!?!!

 昨夕方、久しぶりに両開三人組がそろって顔を見せてくれた。ハつちゃんだけが地元大川、良ちゃん、サダちゃんは柳川の南端。有明海に南面する両開地区。両開は干拓地。一次、二次、三次と干拓された歴史は、集落名と東西に長くつらなる堤防のあとが物語っている。
 上八丁・下八丁・東の切・中の切・西の切・東六十丁・中六十丁・西六十丁・中開・・・。
 私は今でもひそかに、両開地区を海の村と呼ぶ。親愛をこめて呼びかける。
 米・麦・藺草の生産と生産物の量質ともに、周辺地区や商人たちの信頼を集めていたという、ほぼ純農村に生まれ育った身にとって、海の村は半農半漁、ことばづかいから語調から粗?荒?暴?がまず胸を射た。が、父兄会に集まった母親の一人が廊下に膝まずいて「先生さま」、と顔を上げて口にして愕かされた空気が村のおおよその風と理解された。
田園地帯が校区の母校は勤務の先生がよろこび、去った先生が懐かしがる校風。すなおで純朴で喜々として規則を守り、行儀正しく礼節を心得ている・・・・と。教育熱心で予算はたっぷり組まれて、事、教育となれば糸目はつけない。学校の図書室の蔵書は充実し新刊が惜しみなく並びつがれていった。
 対照的な貧弱さであった。結婚による赴任校は。学校は二階建て一棟のみ。運動場は狭い。講堂はない。古参女教師の朝礼の注意にもびっくりものだった。怒号であった。
「こらっ。おまや下見いて。まっすぐ頭ば上げて前んもんの頭ば見っろ」
 お子等は母校同様に澄んだ目だった。純真だった。覇気があった。こちらが励めば励んで応えた。遅々帯々であろうと、反応は私に希望をくれた。希望は光であった。光は先導であった。
 休み時間は、ここでも日記を見た。日記には家庭における子らの位置が覗いた。悩みに気付いた。私の視野の狭窄におどろいた。朱筆を入れた。小言をそんなに喜んでくれるの? 有難う! ありがとう!! だった。
 体育時間はドッジボールをした。ソフトボールも。
 三振ばかりしても、お子らは嘲もなかった。稀に当たれば拍手喝采をくれた。ドッジボールの時だった。むきになって打たれれば睨みつけて
打ち返したはいいが、滑って尻餅をついた。手を添えられて起きあがった。モンペの砂埃を払う私へのまなざしは憐憫を湛えていた。
 あちこちに雨水を深め草茫々の荒地が見えた当時の海の村の、南のはたけは現在、巨峰の生産あり、花栽培ありの活況が新聞記事になる。
 可愛い五年生六年生も、今は還暦のおばあさま。ちらほらの白髪と言う頭髪は茶に黒に染めて、それぞれ自己流の整髪もたのもしい。
 夢をくれたお子ら。遊んでくれたお子ら。半世紀経て、いまもなお移り替わり訪ねてくれるお子ら・・・ありがとう! ありがとう
 母よ
 こいう日中でした。あなたのお蔭です。全くおかげです。風樹の嘆きは深くなるばかりです。ごめんなさい、お母さん・・・!!



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