2004年(平成16年)4月1日号

No.247

銀座一丁目新聞

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追悼録(162)

ソ連抑留中、散華した同胞を悼む
 

  大連二中の同級生、有ケ谷 芳君、磯口勝美君、板垣敏好君の三人は敗戦時、満州で応召、ソ連軍の捕虜となり、シベリアに抑留中なくなった。私のアルバムには有ケ谷君から贈られた彼の顔写真がある。日付は昭和17年11月22日となっている。裏面に次のような言葉が残されている。「君は実に意思の人・心の人である。『天は自ら助くる者を助く』苦しみなくて楽なく楽しみあれば苦あり。あくまで軍人として生き軍人として死する君に次の言葉を贈る。『常に必勝の信念を持し死するとも尚やまざる精神を以って事にあたれ』
彼はこの年の8月に私が陸士を受験したのを知っていた(合格通知は12月17日に電報できた)。いささか面映いが、いまとなってみれば、これが彼の遺書となった。最近友達に進められて、ソ連に抑留中に非業の最期を遂げた近衛文隆の生涯を描いた「夢顔さんによろしく」(西木正明著・文春文庫上・下)を読んだ。それによると、近衛さんは逆境にありながら房内歩行に加えて一日最低2時間ロシア語の学習に当てた。「さすがにプリンストン大学に留学していただけあって勉強はお手のものだね」と同房の関東軍参謀第二課長、浅田三郎大佐(陸士36期)が言うと、文隆はにやりと笑って答えた。「プリンストン在学中みにつけたことはゴルフを別にすれば文化人類学、とりわけ男女関係学だけです」。
 別の監獄では支那人受刑者、王傑鵬から中国語を勉強する。監獄での近衛さんの立ち振る舞いや仲間への思いやりをみて、中国語の師匠、実は藍衣社だった王は「あんたはこれまでの人生で俺が好意をもった唯一人の日本人だよ」という。文隆の文化人類学は一本筋が通っている。国家保安省の大佐からソ連のスパイになれと強要される。しかも早期帰国をほのめかされる。25年の禁固刑を処せられた人間にとってこれほどの甘い蜜はない。文隆は断乎拒否した。「近衛の長男である。近衛の息子がソ連の手先になってどうするのだ」自問自答して出した結論であった。並みの人間にできる決断ではない。抑留中、ソ連への協力の誓約書を提出した人々は300人前後といわれる(日本憲兵外史より)。
 「生死の程も判らぬ八歳を待ち通したる妻ぞいじらし」と歌った文隆は日本の土を踏むことはなかった。うつ病患者に仕立てる為にある種の薬を飲まされて次第に体が蝕まれて昭和31年10月29日イワノヴォ収容所で死んだ。41歳であった。死因は動脈硬化に基づく脳出血と急性腎臓炎であった。

(柳 路夫)

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