2002年(平成14年)8月1日号

No.187

銀座一丁目新聞

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追悼録(102)

 澤地久枝さんの「わが人生の案内人」(文春新書・本体700円+税)を読む。
 雑誌編集者と新聞記者の違いを知る。約9年間の編集者生活が澤地さんの人生の大學であった。子母沢寛、山本周五郎、小林秀雄、野上弥生子、南原繁といった先達が「わたしの大學」のこころやさしい教授であった(中山義秀の章)。30年余に及ぶ新聞記者生活は私にとっても人生の大學であったが、心やさしい教授はいなかった。教科書は事件であった。下山事件、造船疑獄、日通事件、ロッキード事件などで事件の企画の建て方、処理の仕方、記事の書き方を教えられた。世の中から指弾された森脇将光、児玉誉士夫は何故か私に特種をリークしてくれた。この恩義は忘れない。社内には厳しい優秀な先輩がすくなからずいた。鍛えられた。
 澤地さんの先達たちは珠玉のような言葉をはく。「ドラマでも小説でもテーマがまとまらないとき、わたしは蕪村を読むのよ」(向田邦子の章)。蕪村は俳句だけでなく絵も芝居もこなした。その句には想像力を具体的に刺激するものがあるのかもしれない。「向田さんの友人たちはみんな自分が一番親密だったとおもっている」と澤地さんはいうが、その通りで、余りあっていない私でもそんな気持ちにさせられた。
 「般若心経にはどういう意味があるのですか」
 「まあ、いろはにほへと、というようなことですわ」(清水公照の章)
 時間を持て余すと、般若心経の写経をする。意味もわからずに書いていた。感服のほかない。
 澤地さんが敬服してやまない中野重治の詩句のひとつが紹介されている。
 「娘たちよ、また青年よ、また五十すぎた私自身よ。事がうまく運ばぬからといって決して腰を引くな。どこまでも自尊心を謙遜に保って、筧の水のようにしたたりを溜めて行けということである」(中野重治の章)
 実はこの本で一番はじめに開いたのは陸士の先輩、遠藤三郎(陸士26期)の章である。手元にある資料には「仙台幼年、陸士、陸大の優等生。砲兵から航空に転科し・・・戦後、その思想は180度転換して非武装論を唱え、中共政府にまぬかれたりして赤い将軍といわれた」とある。その遠藤さんが11歳からのいままでの日記をすべて澤地さんに渡して自分を正直にさらけ出した。それは澤地さんのひたむきで、探究心が強く一途な性格が気に入ったからであろう。また、満州事変終結のための塘沽停戦協定(昭和8年5月)の起案者が遠藤少佐であるのを始めて知った。この協定に代表として調印した関東軍参謀副長、岡村寧次(後に大将・陸士16期)がのちに「このあたりで支那事変を終結しておればよかった」と述懐したと言う話を最近聞いた。
 23人の人生の先達の何気ない一言、ゆるぎない生き方に私は生かされてきたのだと澤地さんはいう。通読して言えるのはなくなった23人の先達によせる澤地さんの思いやりある、行き届いた筆使いである。とりわけ、小島政ニ郎にそれを感じる。切々と訴えるものがある。すべてが見事な追悼録になっている。振り返れば、私にも人生の先達がいる。その先達に励まされ、教えられ、生かされてきたことを深く感謝したい。

(柳 路夫)

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