2002年(平成14年)8月1日号

No.187

銀座一丁目新聞

ホーム
茶説
追悼録
花ある風景
競馬徒然草
安全地帯
映画批評
GINZA点描
横浜便り
お耳を拝借
銀座俳句道場
告知板
バックナンバー

競馬徒然草(18)

−絶滅の危機− 

 騒々しい世の中のことを離れて、少し馬のことを書く。馬といえば、サラブレッドのことと思う人が多いだろうが、そうではない。昔から日本列島の各地には在来馬(和種)と呼ばれる馬がいたし、今もいる。北から挙げれば、北海道和種馬(道産子)、木曾馬(長野県)、野間馬(愛媛県)、対州馬(長崎県)、御崎馬(宮崎県)、トカラ馬(鹿児島県)、宮古馬(沖縄県)、与名国馬(沖縄県)。体高はせいぜい130センチほど。それ以下の小型馬もいる。中国大陸から渡ってきたようだが、祖先は蒙古馬だといわれる。
 古くは農耕用として使われた。荷も運んだ。軍事にも使われ、源平の合戦の頃には大いに活躍した。木曾馬などは、木曾義仲の名とともに知られている。その後、戦国時代になると、さらに欠かせないもとなる。宿駅制度ができると、馬は街道で旅人や荷も運んだ。時代が下り、馬が本格的に戦争に狩り出されるようになったのは、日清戦争(1894〜1895)のときからである。軍用馬の育成が盛んになった。そして日中戦争勃発(1937)に続く太平洋戦争には、多くの馬が軍馬として中国大陸へ出征した。その数は100万頭といわれる。だが、1頭も故国の土を踏まなかった。戦後、将兵は帰還したが、馬は1頭も帰還しなかった。負傷や病気で死んだ馬も多かった。死を免れた馬もいただろうが、早い話、すべて大陸に置き去りにされたのである。語られざる1つの戦争の歴史が、そこにある。
 戦争によって、馬は激減した。さらに、戦後は車社会になり、馬の活躍する場がなくなった。荷の運送もトラックに代わった。農業も機械化され、農耕用としても姿を消していった。こうして、日本各地の古くからの在来馬も、今や絶滅の危機にある。木曾馬で知られる長野県開田村の場合、保存運動に力を入れているが、それでも頭数は60頭に過ぎない。やはり保存運動に力を入れている野間馬(愛媛県)の場合も、頭数は75頭。かつて、この地ではミカン畑の仕事に馬が使われた。だが、次第に馬が使われなくなって、70年代には5頭にまで減り、「幻の馬」と呼ばれた。それが今日に至っているのは、地元の強力な保存運動に支えられていることによる。今治市が20億円かけて建設した「野間馬ハイランド」は、放牧場や乗馬広場などを完備、愛好家たちで作る保存会が運営している。地元小学校のクラブ活動や、ホースセラピー(乗馬療法)にも使われている。観光客を含めて、年間2万人が訪れるという。
 この今治などの場合はともかく、その他の土地の場合はどうかというと、保存運動も心細い限りというほかはない。保存しようと考えるだけでは、先細りになることは眼に見えている。何らかの利用(活用)をしなければ絶えてしまう。各地でそれぞれに適した利用法を考える必要がある。今治などの場合のように観光だけでなく、学校の情操教育に役立てるのも1つの方法だろう。各地でそれぞれに適した利用法の創出が望まれる。
 ところで、今治や木曾の開田村へ子ども連れで、在来馬のふるさとを訪ねてみるのは如何だろう。夏休みの1つのプランとしてお勧めしたい。

(宇曾裕三)

このページについてのお問い合わせは次の宛先までお願いします。
www@hb-arts.co.jp