2001年(平成13年)3月1日号

No.136

銀座一丁目新聞

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花ある風景(50)

 並木 徹

 56年振りに中学校時代の恩師、牧原 一郎さんにあった。92歳の先生は矍鑠としていた。大連二中の第一回生で、私たちは国語を教わった。2月25日の日曜日、東京都下に、四人の同級生とともに訪れた。お酒を酌み交わしながら、時間のたつのを忘れた。
 大連二中は敗戦と共に消滅したが、旧関東州の一角、大連市に大正13年に創立された。在校生は24回まで数える。私たちは昭和18年2月卒業の17回生である。
 先生も敗戦時、苦難をなめた一人であった。昭和20年7月、関東軍が南方に移動した穴埋めのため召集を受け、北満に行かされた。35歳であった。間もなく終戦となったものの、ソ連軍が侵入、8月下旬、捕虜となり、シベリヤに抑留された。収容所で偶然にも私たちの担任であった大井 芳雄先生(4回生、大連高商教授、故人)と一緒だったこともあり、共に便所掃除をやらされ、苦労したそうだ。両先生とも命ながら得て22年9月無事、日本に引き揚げてきた。
 帰国後、郷里の広島に落ち着き、中学の先生となり、16年間も校長を務めた。私たちからみれば、洒脱でものにはこだわらず、淡々とした先生だが、共産主義ソ連の実態をハダで知って、日教組とは徹底的に頑固なほど闘ったらしい。
 私たちの中学時代もかなりのいたずらをしている。
 女学校からきた若い先生がいた。物腰が柔らかく、ものの言い方も丁寧であった。
 授業中、やさしく「わかりましたか」と聞く。皆で「わかりません」と答える。「どこがわかりませんか」と問うと「みんなわかりません」と口をそろえる。たまりかねて先生が泣き出すという一幕もあった。また、小石をパチンコでとばし、教壇の先生にあてそ知らぬ顔する生徒もいた。
 関東軍の高級将校の話を校庭で全校生徒が聞いている時、「話が長くて、くだらない。やめろ」といって小石を投げて問題となった同級生もいた。父親が新聞社の幹部だったというのでことなきをえた。そのような生徒がそれなりに立派な社会人になっているのだから、世の中は面白い。当時の教育に一本芯が通っていたのかもしれない。
 牧原さんの気がかりは、日本の将来のようであった。私は50年先を考えて教育改革の重要性を訴えた。国を守る気概もなく、公共のために尽くす気持ちを失っては衰亡の一途をたどるほかない。その意味ではJR 新大久保駅でホームに落ちた乗客を救おうとして、命を落とした日本人がいたことは、まだ日本も見捨てたものではないと感じているとも感想を述べた。
 最後に先生の発案で二中の校歌を合唱して別れた。

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