2001年(平成13年)2月10日号

No.134

銀座一丁目新聞

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追悼録(49)

 大正時代の天皇誕生日(天長節といった)はいつかと、よく友人たちに聞いた。誰も答えることが出来なかった。8月31日である。大正天皇は明治12年のその日にお生まれになった。だから、私の父親は天長節の節を取って節男(本名)としたのである。
 それ故に、大正天皇には人一倍関心を持っている。漢詩に長ぜられていたのは知っていた。作詩は1367首におよぶ(甘露寺 受長著「天皇さま」より)
 子供の時から川田 順さんの父、川田 剛さんや二松学舎の創始者、三島 毅さん(当時東京帝国大学教授、1830−1919)の指導を受けられた。三島さんが八十歳になった時、お祝いの漢詩をつくられた。
     白髪朱顔志益堅
     朝朝説道侍経筵
     後凋松柏堪相比
     冒雪凌霜八十年
 ※註 経筵(けいえん)天皇が経書の講義を聞く席を意味する。
 即吟というが見事な漢詩である。意訳するとつぎようになる。
 李白の詩にも歌われているような品のよい老人、その人の志はますます堅く、朝ごとに天子のそばにはべり、帝王の道を説く。操を守り、教えているその様は、いささか衰えたとはいえ、常緑の松と柏に比べても遜色はない。さぞかし苦労の多かった八十年であったろう。時に天皇は31歳であった。
 原 武史著「大正天皇」(朝日選書)には皇太子時代、自由奔放な振る舞いをさられた人間的なお姿を紹介している。明治33年(1900)10月九州各地をまわれたが、熊本へ移動する列車のなかで、福岡知事に「汝は煙草を好むや」といって煙草をさしだされたり、香椎の宮境内で松茸狩りをしていたところ、あまりにとれるので「ことさらに植えしにあらずや」とのべてヤラセを見抜き、関係者をあわてさせている。
 子煩悩なお方で、明治45年、天皇になられるまで、三人の子供たちと相撲したり鬼ごっこをしたりされた。ときには皇后さまのお得意のピアノの演奏に合わせて軍歌や唱歌を歌ったという。
 大正天皇は大正15年12月25日、葉山御用邸で崩御された。毎日新聞記者、富樫 準二さんはその著書「天皇とともに50年」に取材の苦労話を書いている。毎日新聞は政治、社会、地方部のデスク以下30名近くを特派し、民家を借り受け電話の急設や夜具、布団の運搬やらテンヤワンヤ。ところが葉山郵便局と東京間の電話回線が少ないため電話争奪戦が展開され問題となった。おたがいに悲鳴をあげた結果ご容態はすべて宮内庁でも同時発表することで解決した。今も昔も現場の騒ぎは変らない。
 大正天皇が新嘗祭(11月23日)の折によまれた最後の御製は印象ぶかい。

 かみまつる わが白妙の そでの上に かつうすれゆく みあかしのかげ

(柳 路夫)

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