2000年(平成12年)11月10日号

No.125

銀座一丁目新聞

ホーム
茶説
追悼録
花ある風景
横浜便り
告知板
バックナンバー

 

追悼録(40)

 75歳をすぎると、友人との別れがくる。今年、陸士の同期生は50数人がこの世を去った。中学時代の親友の一人、西村 保君が5月26日、肺ガンでなくなった。
西村君とは大連二中で同級であるばかりか、大連市の光明台、大仏山の中腹にあった『大連振東学舎』で4年間生活をともにした。振東学舎は大正年間に、大陸に雄飛する青年のために漢学者、金子 雪斎先生が建てたもので、昭和10年代には親元をはなれて、中学に通学する子弟のための寄宿舎となっていた。
 学舎は二階建て、一階は舎監の住居と道場、大浴場、二階が五部屋あって、私たちの生活の場であった。ひと部屋5人、五年生が室長で下級生の面倒をなにくれとみた。炊事は自炊で五部屋が一週間交代で担当した。生徒たちの自律の精神を養うように配慮されていた。
 舎監は大田 誠さん(故人)で、真面目で誠実できびしい人であった。朝6時起床、6時30分舎前に整列、体操の後、大田さんが先頭にたって30分間近くの街の中を駆け足した。おかげで体力がついた。
 西村君は高知高校から阪大医学部へ進み、卒業後病院勤務を経て昭和30年代に尼崎で産婦人科を開業した。温顔で人当たりもよく、かんでふくめるような話し方をするので、患者の受けも良く、産院は繁盛した。大連にいた関係から中国の留学生の面倒をよくみた。そのため、中国語の勉強もしていた。
 私とはよくゴルフをしたが、ハンデシングルの人にはかなわなかった。チョコはとられてばかりいた。次男の就職の世話をし、結婚の仲人もしたので、大阪と東京とはなれていても西村君との交流は深かった。平成5年2月、次男が二人の子供を残して42歳で急逝したさいには気の毒なほどがっくり肩を落としていた。


    先立つ子 友は愚痴らず 春さむし
                 (牧念人 悠々)


 3月3日に行われた次男の告別式は盛大であった。ゴルフも野球も上手であった次男は会社では人気者であり、とりわけ、人当たりも良く、親切であったので皆から好かれていた。
 それが西村君のわずかな慰みとなった。
 西村君と最後に会ったのは5月5日であった。大阪の同級生とともに労災病院のホスピス病棟に入院している同君を見舞った。進行性肺ガンで手術は不可能ということであった。
彼自身は延命措置すべて拒否、死を待つばかりで、淡々としていた。
 前兆はなかったのか。医者でありながら気がつかなかったのか。私は疑問に思う。今年の2月20日大阪の新年会に出席したさい、西村君の顔が黒ずんでみえたので「あまりゴルフばかりしているとバチがあたるよ」と冗談を言った。いまにしておもえば、その時、病は進行していたのだ。それが顔に表れていたのであろう。一ヶ月後ゴルフをプレイ中に倒れ、病院に担ぎ込まれたが、すでに手遅れであった。西村君に医者の不養生という言葉を使いたくないが、自分の体をまもるのは自分しかないとつくづく思う。

(柳 路夫)

このページについてのお問い合わせは次の宛先までお願いします。
www@hb-arts。co。jp