道場主今月の一言

もともと地上に道はない」
魯迅

銀座俳句道場 道場試合第56回決着!!  

11月の兼題は 「小春」、「木の葉」、「セーター」 で した。

 今年も師走半ばとなりました。何と早いことか、と改めて一年という時の早さを
思います。
 「俳句」をしていると、殊の外時の経つのが早い、と言われます。四季、そしてその季節季節の移り…そのような折々を表わす季語。何より、それらの移ろい毎に心動くことを覚える訳ですから、時の動きは、知らぬ人よりも早く感じられるでしょう。そのような心の動き=感動を書き留めるという行為を知ってしまうということは、意外に心忙しいことか、とも微苦笑を禁じえません。
 事多い一年でした。戦後六十年というこの年の、「日本」が持ち、築き上げようとしたことからは随分と遠い処へ走ってきた部分が一気に出た感もします。新たな年は、それを嘆くだけでなく、新たに模索する力とする年にしたいものです。

 よき作品との出会いを下さった皆様の、ご健勝とご清吟をお祈り致します。          (谷子)

  オードリー・ヘプバーンの細い首。意表をつかれながら、深く納得させられる一句であった。誠に上手い一句。
 
  相手に悟られない様に心を静める。「セーター」なればこそ、その胸の隆起が思われる。
  小春日の中の小動物はよく詠まれる題材だが、この一句、犬の目に焦点を当て、更に「細くおとなしく」で、と覗き込むような姿勢とあたたかな思いが伝わってくる。
 

【入 選】

 ゲレンデの赤のセーター見守りぬ     瞳夢

瞳夢さんのは、「見守りぬ」によって、赤いセーターの一人だけを追う視線と心が伝わる。

小春日や昼の憩のテーマ曲     とみゐ

とみゐさんのは、「昼の憩いの」という畳みかけで、伸びやかでよき気分が伝わる。

木の葉散るラッタッターと鼓笛隊         竜子

竜子さんのは、寂しさに偏りがちな「木の葉散る」と言う景色を、童画風の明るい景に変化させた。

小春日や橘寺の壁白し        正己

正己さんのは、「橘寺」という固有名詞がしっかりと力を発揮している。

 

   【投稿句】 (順不同・赤い字は選者添削、◎は入選)

 小春日に四代揃いに新嘗祭         老松
   「に」の重なりが気になります。「小春日や」「四代揃う」とされるとよろしいでしょう。ただ、「新嘗祭」というと天皇家四代ということになりますので、どういうことか、いささか首を傾げます。「小春日」「新嘗祭」の季語の重なりは、「新嘗祭」がその一日のことなので、このままで結構です。因みに国民側としてはこの日は「勤労感謝の日」です。
 テェディーベア手編みのセーター新調す
すぐ来よと院へ急ぎし木の葉髪
   「院」は病院だけではありませんが、何かしら家族の急病か、などと不安な感じが伝わります。「急ぎし」ですから
   〈すぐ来よと院へ急ぎし木の葉雨〉と。


縁側に寝転んでゐる小春かな           京羅坊
 旅人はゐのちを詠ふ木の葉かな
セーターや女子校生の坂の町
   女子高生の持つ特有のやわらかな感触が伝わってきます。「坂」の力でしょう。

 も知れぬ木の葉に匂ひ軽目焼    傘汀 
   打ち間違えなのか、頭一文字が抜けているようです。何だか面白そうな句材だけに
   一寸残念でした。あれこれと、五音だけでなく七音までも考えたのですが、不明のままでした。

 大空の果てまで澄みし小春かな
友の訃にセーターのまま駈けつけし

母の忌や 小春日和を 賜りし             花子
想い出は 母と小春の 野辺歩き
行楽の 鍋に木の葉の 仲間入り
   芋煮会でしょうか?楽しそうですね。

小春日や座りし姑の背丸き               方江
木の葉散る道かえてみる万歩計
 セーターの編目を風が通りぬけ
   〈風通り抜け易し手編みのセーターよ〉などと。

見上げればジャンボ機小さく小春かな          竹雄
トンネルを抜けて奥入瀬木の葉雨
 セーターの胸の凸起を射す視線
   先ず「凸起」というのはどうも感心しません。「胸のまるみを」などと。
   「射す視線」は男の視線というよりも、同性の視線の感じがしました。


しなやかに猫駆け上がる屋根小春       瞳夢
久濶の友迎えんや木の葉降る

木の葉散る賀状欠礼葉書来る             とみゐ
 感激の手編みセーター色褪せし

 木の葉雨母退院の朝来たり         門次郎
若くあれ青いセータープレゼント
   〈若くあれ青いセーター贈らるる〉
   〈君へ贈る青いセーター若くあれ〉

                       

鎌倉の谷(やつ)から下る小春かな           有楽
一年が一生なりし木の葉散る
セーターも小さくなりぬ想い出も

本陣の上段の間の小春かな               吐詩朗
    なかなかの一句です。
 からからとポプラ落葉の舞ひ奔る
 セーターの派手な絵柄や応援歌

昼の楽ゆったり流れ島小春                あゆ
忘れ癖きりなくなりし木の葉髪  
セーターに残る煙草の匂ひかな
    脱ぎ置かれたセーターか、自分のセーターか。それぞれにドラマを感じさせます。

○小春かな松本楼に客あふれ                洋光
 木の葉降る終の栖てふ土蔵
    中七から下五へのリズムをもう少し。「といふ」とされてもよいでしょう。
 譲られし子のセーターに若やげる
     「お下がり」ならぬ「お上がり」というようですね。明るい色のセーターが思われます。
 
 小春日の郵便ポストに五歩六歩              意久子
 木の葉ゆるる八階の窓無菌室
    八階に「無菌室」があることを知っていて、下から仰いでいるのでしょうか。
    無菌室からの眺めとすると、「木の葉ゆるる」が窓の側で揺れているようで、奇妙  

    な感じがします。
蜜柑色のセーターときめ髪洗ふ
    中七までは大変結構です。「髪洗ふ」はここでは季語としては働いていませんが、
    もう少し推敲されてみてはどうでしょうか。
    〈蜜柑色のセーターと決め明日は逢う〉などと。


小春日といふ贈りもの学園祭               景子
 櫻落葉忘れしままや三輪車
    〈櫻落葉忘れしままの三輪車〉と。
ほどしゆくセーター子のもの孫のもの
    「ほぐしゆく」でしょうね。

 小春日や思考回路は行き止まり              もとこ
 セーターの袖ひっぱって臍を噛む
    「臍を噛む」という思いには、中七までどうでしょうか。それぞれは面白いので、
    二句出来そうです。やってみて下さい。

木の葉散る立禅の背を打ちながら

セーターの早出の看護士帰りをり           竜子
  小春日や縁に父子の語りをり       

町裏の小春日和や人を待つ          みどり
木の葉散る昨日のことはすべて忘れぬ
     〈昨日のことはすべて忘れぬ木の葉散る〉と。
  とり込みのセーターふっくら陽の匂い

 古セーター小さき真珠を装ひぬ                弘子
     つつましく、好もしい一句です。
一葉に逢ひに菊坂小春の日
廃校に降り積む木の葉あまねき陽

 束の間の木の葉の舞やつむじ風     正己
 秋高し白波寄する片男波
     「片男波」というのは強い波ですから、中七はいささか重複の感。
コスモスや少女で逝った姉の笑み
 山裾をうねりて遙か葡萄園

 木の葉時雨決然飛び抜く白い鳥     さかもとひろし
     いささか言葉だけが先に走っています。
セーターの重ね着重く喜寿の人
 遠のくや術後の想い木の葉舞う
   三つにぶつぶつと切れますので、
   〈遠のける術後の思い木の葉舞う〉と。


人恋しセーター頬にあててみる         美原子
 小春日を細いに分けあいブナ林
     良いところに眼を凝らしておられますが、中七の表現をもう少し頑張ってみてください。
 病上がり体馴らしに木の葉掃く

嫁ぐ子の来て話し込む小春かな           よしこ
木の葉道嫁ぎゆく子と歩を合はせ

 とよもせる寿ぎの声小六月          紫微
木の葉雨隣の屋敷売りに出づ
     「売りに出(い)づ」というと、家そのものが出たみたいです。「売りださる」が駄目なら、「出(で)し」でしょうか。
姉編みしセーターの糸ほぐれけり
    「姉編みしセーター」のよろしさ。

 頬赤き少年の日もセーターかな          あきのり
    〈頬赤き少年の日よセーターよ〉でしょう。
百万の散りゆく木の葉惑いなし
 青空と酒の小瓶に小春かな
             
降り立ちば日向は小春日和かな             満子
    〈降り立てば日向は小春日和かな〉
セーター脱ぎフェニックスロード疾走す
    結構です。
木の葉ふる高千穂峡の深さかな

はらはらと 木の葉ささやく 母の墓           河彦
 ゆらゆらり 木の葉色づく かずら橋
友が逝く 木の葉の落ちる 音を聞く
    「逝く」「聞く」と二つの終止形が入るのは、通常は避けますが、この句では
    その強さが働いて、かえって慟哭を聞くように思われます。

 十数粒の ぶどう一気に 噛みしめて
くちづけのごとくぶどうをくちびるに
 誕生日 祝うコスモス 宅急便

木の葉舞ふ小径に向きて木のベンチ            水の部屋
セーターの少年の胸薄かりし
 ひと波の砂城はかなき小春かな
    「ひと波に」でしょう。

番犬の大の字に寝る町小春                 天花
 戌の日の巫女の小走り小六月
    安産祈願の参拝者多数、というところでしょうか。「小」の重なりを再考してみて下さい。
小春空ひと口サイズの握り飯

小春日やピーターラビット持たされて             萬坊
 木の葉散る真青に一本飛行雲
 北斎に着せたしセーターVネック
    タートルネックでは如何でしょうか。

小春日や武将の像は鳩載せて                 美沙
    「鳩を載せ」ではないところ、軽やかになりました。
朝日影今を一途の木の葉かな
セーターを詰めて故郷の海鳴りへ
    結構です。

 母の編む セーターのまだら 少年期       姥 懐
    「まだら」は網目が不揃いなのか、いろんな糸でということなのか?
    〈母編みしセーターいつも大きくて〉などでも回想の一句になります。

 庭守の 水面の木の葉 限もなし
    〈庭守に水面の落葉限もなく〉と。
女子学生 腰に上着の 小春かな

小春日や荒行に入る僧の列                  薫子
 散歩する犬もセーター縞模様
夕灯し木の葉の栞透きとおる       

小春日の母に抱かるる子猿かな         章司
 新しき手編みセーター異郷の子
木の葉降る音に寝落ちて山の宿

三々五々 コンビニ弁当手に 小春             霞倭文 
なぜ そんな 友は手術と 木の葉舞う
 まだ着れるピンクのセーター 姉手編み
    どうも「着られる」のら抜き言葉には抵抗があります。

 小春かな母へ報告ひとつ増え                だりあ
木の葉降る魔よけの鈴の音の清し

 想ひ出の文集仕上ぐ小六月                 のぼる
木曽川の日暮は早し木の葉降る
 木曽駒岳や画家を気取るる黒セーター
    〈画家を気取れる〉でしょう。

廉恥とは死語となりしか木の葉踏む              悠々  
    構造設計事件でけでなく、誠に誠にと思います。
    「恥の文化」とでもいえるものが皆無になりました。
    「恥を知る」というのは本来、自身の倫理感に対してのものと
    考えると、「倫理感」ということばそのものも全く消えてしまって
    いるということでしょうか。嗚呼。
    足許で立てる木の葉の音が切ないですね。

                            

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