小さな個人美術館の旅(7)
棟方志功記念館

星 瑠璃子(エッセイスト)

 一度だけ棟方志功に会ったことがある。かけだしの編集者だった私が東京上荻の自宅を訪ねたのはもうずいぶん前のことだ。立派な門を潜って玄関の方へ歩いていくと、裏の方から野良着姿のばあやさんみたいな人が現れた。「その辺にいるはずですよ」ということで、あたりを見回していると、こんどはじいやさんのような人が出てきた。「先生はどちらに」と問うと、「ワタシ」とじいやさんが答えた。よくよく見れば確かに棟方志功だ。恥じ入りながら、先に立つ氏に従って大きな応接間に通れば、お茶をもって現れたのは先ほどのばあやさん、と思ったのはチヤ夫人だった。柳宗悦、浜田庄司、河合寛次郎にもまして棟方を助けたといわれる人だ。「弟テオに助けられた兄ゴッホ、チヤに助けられた夫ムナカタ」とどこかで読んだことを思い出し、私はすっかりアガってしまった。

 志功氏は、あのド近眼の眼鏡を企画書スレスレに近づけて読んだ。それは、現代一流の画家たちが挿絵を描くことで当時話題をよんだ文学全集の企画だった。日本が誇る世界的な版画家にそのとき何を頼んだのか今はもう忘れてしまったが、「描くからにはその作品を読んでからにしたい。しかし自分はこんな目なのと、アメリカでの大きな展覧会を控えているので」というようなことを、すまなさそうに訥々と答えた画家の、コップの底みたいな眼鏡の奥の目だけは鮮明に覚えている。片目はすでに失明しているはずだった。

 その棟方志功の記念館に、はるばる訪ねて来たのである。盛岡から在来線で二時間。一戸(いちのへ)、二戸、三戸……、八戸を過ぎ、野辺地あたりまでくると、窓の外に暗い海が広がっていた。新幹線の来ない青森はまさに北の僻地。「最果て」という寂しい言葉が自然に出てくるのは、季節はずれの冷たい雨のせいばかりではなかったろう。

棟方志功記念館
棟方志功

 青森には冬と夏しかない、という。長い冬が過ぎれば春がちょっとだけ顔をだし、夏のネプタが終わるともう肌寒い秋風がオホーツク海から吹いて、また長い冬がくる。そんな町から、全身全霊で生きる喜びをうたいあげた版画家が生まれた。

 棟方志功は1903年青森市生まれ。小学校の頃から絵が得意、青森名物の凧絵の武者絵が人気を集めて、休み時間には注文する級友が回りをとり囲んだとか。いつも「世界一の画家になる」と言っていたので「世界一」というのがアダ名だった。小学校を卒業後、家業の鍛冶屋を手伝った後、十七歳で裁判所の給仕となった。給仕の仕事はヒマがあったので、朝早く、夏などは四時半ごろに起きて裁判所に出かけ、大いそぎで掃除をすませると、写生帖をもって合浦公園へ写生に出かける。「写生が何より遊びでした。体がこんこんとひとりでにはずむのでした」と自著『板極道』に書いている。

 絵の仲間と会を作り、やがてゴッホを知ると、「スコ(志功〉は風邪ンこひいてるんでねえか。いつもゴッホ、ゴッホといっている」と笑われるくらいのゴッホ狂になった。

 「青森のゴッホ」が「日本のゴッホ」を目指して上京するのは二十一歳の秋。貧窮と苦難と傷心の四年間の後、帝展に初入選したのは二十五歳のときだった。その後、川上澄生の「初夏の風」に打たれて版画に転向、「板画」一筋となってからは、新文展の特選(38年)を皮切りにサンパウロ・ビエンナーレの最高賞(55年)、ヴェニス・ビエンナーレの国際版画大賞(56年)、朝日文化賞(65年〉、毎日芸術大賞(70年)と次々に受賞。1970年には、夢にも考えたことのない文化勲章受章の栄誉に輝いた。

 「ボクになんかくるはずのない勲章をいただいたのは、これから仕事をしろというご命令だと思っております。片目は完全にみえませんが、まだ片目が残っています。これが見えなくなるまで、精いっぱい仕事をします」と感激して語ったという。それから五年目の秋、七十二歳で没。青森市葬が行われた翌日、ここ棟方志功記念館が開館した。

 回遊式の日本庭園をもつ校倉づくりの記念館は、世界のムナカタに相応しい堂々たるたたずまい。雨のなかでツツジがそこだけ明るく灯をともしたように咲いている。「もっと土くさいほうが棟方らしい」という向きもあるようだが、何でも一番でなければ気がすまなかったジョッパリの志功が、こんな記念館を望んだのだったろう。

 展示室はあまり広くなく、年に四回かけかえられる作品の数もそう多くないのも、棟方自身の注文だった。ゆっくりと心ゆくまで観賞できるスペースに、とくれぐれも言い残したという。だが、「萬朶譜」「釈迦十大弟子」「柳緑花紅頌」……と並ぶ展観の、なんという輝かしい重量感だろう。代表作にまじって小さな「あおもりはの柵」があった。

棟方志功作 「花矢の柵」(部分)

 あおもりは かなしかりけり かそけくも 田沼にわたる 沢潟(おもだか)の風

 やっぱり棟方は、骨の髄まで津軽の版画家だったのだな。


住 所 青森市松原2−1−2 TEL 0177-77-4567
交 通 青森駅、バス2番乗り場より中筒井行きなどで中央市民センター下車、徒歩4分
休館日 月曜日、年末年始他

星 瑠璃子(ほし・るりこ)

東京生まれ。日本女子大学文学部国文学科卒業後,河出書房を経て,学習研究社入社。文芸誌「フェミナ」編集長など文学、美術分野で活躍。93年独立してワークショップR&Rを主宰し執筆活動を始める。著書に『桜楓の百人』など。

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