専門学校で若い学生を相手に月2回程、講義をしている。実に様々な個性を持つ彼等と触合うと、午前、午後と約5時間話続け、口や身体はへとへとだが、やけにすっきりする。食いつく様に真剣な眼差し、屈託のない笑い声、真正面からの質問が他の仕事では得られないエネルギーを与えてくれる。

 先日、一人の学生の発表を聞き、この明るい彼等のバックボーンの重さを考えさせられた。彼女はその前の日20才の誕生日を迎え、振り返り、とても不幸だったと感じたと言う。「私の小学校3年の時の担任の先生は、すべて軍隊調でした。3年の時の体育の授業はすべて行進の練習でした。それも、手は真っ直ぐに肩の高さまで上げ、膝は高くというものです。授業中の挙手は、先生の目に向かってする。先生の机の上の大きな文鎮の下に、友達の悪い事を書いておくきまりでした。授業の終わりに、先生がそれを読み上げます。私は廊下を走ったと書かれ、前に呼ばれました。そして、10回『ごめんなさい』をしなさいと言われ、私は謝りました。」一気に彼女はここまで話した。

 私は、まだこんな教育なのかとショックを受けた。その後、彼女は、自分が不幸だったのは、その先生が担任だったからではなく、その時の自分が何の疑問も感じずに先生にとって「いい子」になろうと、ひたすら従順にしていた自分に今気付き、自分自身を生きてこなかった20年は不幸だったと続けた。他の学生の中にも、親や先生にとっての「いい子」を演じてきて、自分がわからないと発表した者が何人かいた。悩みが変ってきている。こんなにも管理教育が、家庭や学校で徹底された結果。彼等は、自分のもの差しを持っていけないとまで感じているのだろう。時折、涙を浮かべながら、自分の切なさを訴える学生達を前にして、「私に何ができるだろうか」と、一緒に切なくなっていた。(新山恭子)


                       

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