小さな個人美術館の旅(4)
萬鉄五郎記念美術館

星 瑠璃子(エッセイスト)

 ゴッホばりの、うねるようなタッチで描かれた緑の草原、というよりは殆ど小山のような斜面に、真っ赤な腰巻きをまとって長々と寝そべり、こっちを見ている半裸の女。それが萬鉄五郎の「裸体美人」だった。

 東京国立近代美術館の二階に、日本の近代・現代絵画史を彩る名品を常設展示する広々と大きなスペースがある。そのなかで、際立って人目をひく作品。強烈な絵だ。初めて見たときから虜になった。それが萬との出会いだった。二十年年、いやもっと前だったかしら。その後、近代美術館へゆくたびに私は「裸体美人」の前に立った。今年、没後七十年を記念しての大回顧展が同じ北の丸の美術館で開かれ、それを見終わったあと、私はここ土沢へ来たのである。日本におけるフオービズムやキュビズムの記念碑ともいうべき作品を残し、最後は南画にまで行き着いてわずか四十一歳で死んだ画家の作品がまだ頭の中をぐるぐると回っていた。その萬の生まれ故郷である。

 東北新幹線の新花巻駅から車で十分。河岸段丘、カーブをひとつ曲がるたびに新しい風景が現れ、その向こうに宮沢賢治が「風澄める よもの山はに/うづまくや秋の白雲」とうたった空が広がっていた。いまは五月だけれど「うずまくや白雲」という空はここにしかない、と同行の友が言う。東和町土沢。「つっつぁわ」と土地の人が言ったその土沢に記念館が開館したのは1974年のことだ。

 車椅子の人も一人で上れるゆるやかなスロープが三つの展示室をつなぎ、ふだんは「萬鉄五郎と土沢」をテーマに、生涯にわたる画業が紹介されている。年譜や写真パネルなど全てを千葉瑞夫館長以下学芸員がつくる。展示室に座っている背広姿の熟年紳士もボランティアとか。郷土が生んだこの不生出の画家を人々がどんなに誇りにしているかが伝わってくる、町民手づくりの美術館だ。行ったときは、70年展が全国を回っている間の「長谷川潔展」が開催中で、裏の中学校の生徒たちが先生の話を熱心に間いていた。萬鉄五郎は1885年生まれ。裕福な家に生まれたが、祖父に中学への進学を反対され、家で日本画を習ったり、水彩画を描いたりしていた。祖父の没後上京し、最終的に早稲田中学に編入。1906年には一度渡米するが、半年後に帰国。その翌年、東京美術学校(いまの芸大)に入学した。卒業制作が、かの「裸体美人」である。


萬鉄五郎記念美術館

 この鮮烈な絵は、後に「日本のフオービズム(野獣主義)の記念碑」と位置づけられたが、卒業時の成績はといえば、油絵科卒業生十九人中の十六番、つまりビリから四番目だった。美校の卒業制作は成績順に展示され、教室に並びきれないビリっこの方は廊下にハミだしたというから、「裸体美人」は廊下のすみこの方で黒い大きな鼻の穴をふくらませてあたりを「へいげい」していたのだろう。それは、しばしば言われるように、黒田清輝ら当時の芸大教授陣の穏健なアカデミズムへの挑戦だったに違いない。

 卒業後しばらくして郷里へ帰り、こんどはキューブ(立体主義)に没頭。「日本におけるキュビズムの記念碑」といわれる「もたれて立つ人」などを描くが、わずか一年半で再び上京。「疲労の極度に達しながら、あらゆる精力を集中してどこまでも画きつづけ」た萬は、上京後わずか三年にして強度の神経衰弱と肺結核にかかって神奈川県茅ヶ崎に転居しなければならなかった。茅ヶ崎時代は、海辺の明るい風物のなかで、次第に自然と素直に対話をするような水彩や南画を描くようになり、一時は回復に向かっているかに思われたが、病状が急変した。


萬鉄五郎作 「丘の道」

 「そこだけに陽のあたっているような」と、五年間の美校時代を萬は後に述懐したという。ということは、あとの年月は「陽のあたらない時代」だった。だが、残りの年月といったところで、まわり道をしたため卒業時は二十七歳だった萬の、それからの人生はわずか十四年しかなかった。「作画以外に少しの時間もエネルギーも費やしたくない」と言った画家にとって、十四年間が長かったのか、みじかかったのか。「裸体美人」がそうであったように、周回の無理解と嘲笑のなかで孤独な戦いを続けながら、今世紀初めの西欧の絵画思潮を次々と消化しつつ、日本という風土に根ざした独自の造形を生み出して、その生涯を文字通り駆け抜けるように閉じたのである。「筆は人です。海の水は一滴でも味がわかるように、一つの筆触は、すなわち全人であることを知らなければなりません」

 晩年の萬の言葉は、「主義」とか「方法」とかいわれるものがこの画家にとってどういうものであったかを、考えさせずにはおかない。


住 所 岩手県和賀郡東和町土沢5-135 TEL:0198-42-4405

交 通 東北新幹線新花巻駅よりタクシー10分
    JR釜石線土沢駅より徒歩8分

休館日 月曜日

星 瑠璃子(ほし・るりこ)

東京生まれ。日本女子大学文学部国文学科卒業後,河出書房を経て,学習研究社入社。文芸誌「フェミナ」創刊編集長など文学、美術分野で活躍。93年独立してワークショップR&Rを主宰し執筆活動を始める。著書に『桜楓の百人』など。

このページについてのお問い合わせは次の宛先までお願いします。
www@hb-arts.co.jp