星 瑠璃子(エッセイスト)
小淵沢インターを下り、小烏の声を聞きながらゆるやかな山道を十分ほど登ると、八ケ岳の南端の山、編笠山への登山口の観音平へ向かう途中にフィリア美術館がある。「小淵の森」と呼ばれるあたりだ。
牧草と緑の森に囲まれた夢のような美術館である。南アルプスの山々が広がる裏手の畑から、麦わら帽子を手に若い女性、学芸員の中山しほさんが現れた。来館者がない時は畑仕事もかねているらしい。
1990年、しほさんの母、中山妙子さんが館長となって「平和」をテーマに開館した。主な収蔵作品は、アウシュビッツから奇跡の生還を遂げたミエチスラフ・コシチェルニアクと、ドイツの女性画家ケーテ・コルビッツの版画。それに、廃墟の町ワルシャワ復興のために開かれたチャリティで買い求めたというポーランドの画家たちの絵本原画、渡辺禎雄の聖書版画など日本の作家による現代のキリスト教絵画からなる。
アウシュビッツの獄中作品というものを、はじめて見た。小さな白黒版画は、やや暗めの照明の下では目をこらして見なければ見えないほど暗い。「屋根ブリキにエッチング」と説明のある「聖家族の像」「キリスト誕生」……。この「死の家」にあって、絵は「誕生」を描いていた。
「音楽」を素材にしたものが幾つもあった。強制収容所には囚人のオーケストラがつくられていたというが、あのアウシュビッツで、これらが制作されたなんて信じられない。画家としての才能を見込まれて許されたのだろうか。監視の目を盗んだのだろうか。あるいは音楽や芸術が、ナチの、人間の内部にある弱さをおおいかくし、心の内面に向かうドアを閉ざす役割を果たしたのだろうか。
陰惨な感じは少しもない。むしろ「静謐」としか表現できないような、ある静かな時間が伝わってくる。その時間は、コシチェルニアクが生還したからというばかりでなく、死につながるものというよりは、仄かながら生を伝えていた。
もうひとつ、衝撃を受けたのはケーテ・コルビッツ(1867〜1945)。
最近、日本でもようやく一般に知られるようになったこの画家は、沖縄の佐喜間美術館にも作品が展示されていると聞くが、「農民戦争」「戦争」シリーズで知られるドイツの女性画家だ。悲しみに押しつぶされそうになりながら、叫びにならない叫びをあげている「母たち」(1923年)、女たち。ケーテの木版画は、暗いことが悪いことでもあるような現代の世相に背いて、ものすごい力で私たちに何かを訴えてやまない。それは、「反戦」などと言ってしまってはあまりに軽い、人間の、そして世界の悲しみだ。ケーテは終生、悲しみをみつめて描いた。
92年からパイプオルガンを設置し、定期的に演奏会も開いているというフィリア美術館は、平和を考える「祈りの美術館」だ。
ティールームでおいしい手作りケーキをいただいたあと、もう少し登ったあたりで八ケ岳をスケッチした。わずかに雪の残る八つの頂きがくっきりと手にとれるよう。淡いオレンジや紫色に輝きながら白い雲を浮かべている。
住所 山梨県巨摩郡小淵沢上笹尾3746-76 TEL:0551-36-4221
交通 小淵沢駅より徒歩20分またはタクシー5分
休館日 水曜日(休日の場合はその翌日)
星 瑠璃子(ほし・るりこ)
東京生まれ。日本女子大学文学部国文学科卒業後,河出書房を経て,学習研究社入社。文芸誌「フェミナ」編集長など文学、美術分野で活躍。93年独立してワークショップR&Rを主宰し執筆活動を始める。著書に『桜楓の百人』など。