連載小説
ヒマラヤの虹(6)
峰森 友人 作

 ちょっとした事情。百合はほんの瞬間、その事情も話してしまおうかという微かな誘惑を覚えたが、さすがにそれは思いとどまった。会って間もない慶太にその事情を話すことはどう見ても妥当とは思えなかった。ホテル・ククリのベッドに入った時、百合はちょっとした事情まで慶太に打ち明けなかった自分の判断に満足すると共に、慌ただしかったこの二ヵ月余りをそっと振り返った。陰に陽にテレビ局での活動を支援してくれていた報道担当実力者幹部によるセクシャル・ハラッスメントに類する行為を受けたこと、その一件が絡んで誰もが羨ましがり同時に励ましてくれていた女性ディレクターとしては初のニューヨーク常駐特派員人事の辞退、そして夫との離婚。ジャーナリスト生活十五年のすべてを空中分解させるような事態がこの短い期間に次々と起こったのである。

 テレビ・ディレクターとして男に伍して心血を注いだ活動は決して悔いの残るものではなかった。しかしその激しい毎日は一体誰のために、何のためにあったのか。奈落の淵のような果てしなく深く暗闇に包まれた疑問が百合の心を覆い尽くした。その疑問が整理されない限り、また毎日が闘いの硬派担当ディレクターを続けることが不可能なことは百合には何よりも明らかだった。ともかく一人になろう、静かな所でもつれた糸をほぐし、これから自分が進める道がどこにあるのかを考えよう。百合はそう決意して、勤続十五年賞与として認められる平常では考えられない長期休暇を懇願してやっと自分だけの時間を得たのだった。旅に出て何が得られるか、百合に確信出来るものは何もなかった。しかしこれまでは余りにも計算されたこと、計画されたことを無難に、いやそれどころかかなりのの成果を産みながらこなしてきた。しかしそこには何か大事な物がすっぽりと置き去りにされてきたのではなかったか。勝算も成功の確信もない不確かな中にこそ、自分の思いも及ばなかった新たな発見があるのではないか。洞窟探検家が未知の真っ暗闇の中に一歩一歩不安の歩を進めて初めて何かを発見するように。

 慶太と出会ったのは何か小さな発見の始まりのような気がした。彼が新聞などにしばしば登場するエリート国際官僚でないことは確かだ。どこか冷めた鋭いものがある。そして自分の同行を認めた時のような判断の速さ、いや大胆さ。そのような資質はジャーナリズムの世界でこそ生かされても、軍隊組織にも似た上意下達で動く国際官僚社会では害こそあれ有利に働くことはないだろう。「国連はお月様」などと揶揄する冷めた職員がどうして官僚機構になじめよう。

 一人でヒマラヤ歩きに出かけて、戦争や平和を考える。慶太が見つけたこの静止の世界は私がどこかに置き忘れてきた世界ではなかっただろうか。百合は心地よい眠りにゆっくりと落ちていくのに任せながら、国連はお月様ともう一度つぶやいた。

 ヒマラヤ・トレッキングでエベレストルートに並ぶ二大トレッキングルートのもう一つであるアンナプルナ・ルートはかつてポカラの町が出発点だった。町のすぐ北にあるサランコットの丘にまず上り、そこからマチャプチャレ、アンナプルナ連峰を遠望しながら山並みを越えて行った。しかし九〇年代に入り、ポカラの西六〇キロにあるバグルンという町まで自動車道路が整備されると、トレッキング出発点も西に延びた。ポカラから車で西へ四十分、フェディと呼ばれる地点が新しい出発点である。フェディはポカラに流れ込むヤマディ・コーラ沿いにあった。コーラとはネパール語で川のことである。

 ナラヤンの指示で慶太のバックパックを背負ったディネスという名の青年が先頭に立つ。その後ろに百合、慶太、そしてナラヤン、最後に百合の荷物を移したバックパックを担ぐ小柄な青年カピールが続いた。午前九時ちょうどだった。トレッキングはいきなり急な上りで始まった。体がまだ坂道の歩行に慣れていないために、慶太の大腿に時々しびれのような感覚が走った。しかしイタリア製登山シューズの分厚いビブラム底は大きな石のでこぼこの肌もしっかりととらえ、一歩一歩確実に前進することが出来た。前を行く百合は登山口で村の子供たちが売りつけてきたのを慶太が買って与えたステッキを持っていたが、ステッキに頼るというより、それを歩くリズムを取る道具として使っているようだった。両手には慶太が用意してきた予備の軍手をはめている。同行している男たちは、ディネスが薄いゴム底のズック靴、ナラヤンは事務所でも履いていたくたびれた茶色のビニール製のスリップオン、そしてカピールは素足にゴム草履だった。三人ともポカラで履いていた履き物そのままで山に来ている。ネパールの人々の生活は足元に如実に表れていた。

 初夏のヒマラヤ山麓で、遠くにも近くにも名の知れぬ小鳥たちが声を上げる。それは緑の谷をいくつも越えてなお聞こえる澄んだ鳴き声だった。厳しい上りが続く中、短い休憩を何度か挟んで、約三時間後にティーハウスと呼ばれる簡易宿泊施設が密集する稜線上に出た。ダンプスという村である。それまで見えなかったマチャプチャレとアンナプルナ連峰のいくつかの峰が視界に広がる。ポカラにもっとも近いミニ・トレッキングの名所である。

 「あなたがたの歩きはすばらしい。私が予定していた時間よりも相当早いペースです」

 ナラヤンがいかにも感心したという様子で上手に大事な収入源である客人を称えた。

 「山歩きの経験はあるんですか」

 慶太も百合の歩きぶりに感心して聞いた。百合は子供の時に白馬と富士山に登っただけ、誰もが経験するお子様ランチ登山だけと答えた。

 「でも局の中では階段を上がったり下りたり、走り回っておりますので、多少足の運動は・・・」

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