「ユキエ」

大竹 洋子

製作・監督・編集 松井久子
  原  作 吉目木晴彦
  脚  本 新藤兼人
  撮  影 阪本善尚
  企画製作 エッセン・コミュニケーションズ
  配  給 シネマ・クロッキオ、近代映画協会
  出  演 倍賞美津子、ボー・スベンソン、ジョー・クレスト、
 マーク・コンクリン、草村礼子、羽野晶紀ほか

1997年/カラー/ビスタサイズ/ステレオ/93分
第10回国際女性映画週間参加作品

 また一人、日本の映画界に女性監督が誕生した。松井久子さん、長いあいだテレビのプロデューサーだった。演出家や脚本家として活躍もした。自分がやりたいと思った作品は、ほとんどテレビドラマにしてしまったというほど、この世界のベテランだった。その松井さんが一篇の小説に出会った。1993年に芥川賞を受賞した吉目木晴彦氏の『寂寥郊野』である。そしてこの小説に熱中するあまり、松井さんがプロデュースのみならず、監督までしてしまったのが映画「ユキエ」である。

 ユキエは戦争花嫁である。朝鮮戦争時代、山口県の萩に住むユキエは、アメリカ空軍のパイロットとして日本に赴任したリチャードとめぐり会った。家族には祝福されなかったが二人は結婚し、ユキエはリチャードの故郷、ルイジアナ州バトンルージュへと海を渡った。ユキエがこの町にきてもう40年がたっていた。息子たちも成長して家を離れ、ユキエとリチャードの静かな日々の明け暮れがあった。

 リチャードは会社のトラブルに巻きこまれ、今は失業中である。家も財産も失い、二人は小さな借家に住んでいる。リチャードは名誉挽回に心をくだき、ユキエは夫のよき理解者だった。しかし、そのような日常生活の中で、ユキエの心を徐々に蝕むものがあった。アルツハイマー症である。

 1986年に羽田澄子さんがつくったドキュメンタリー映画「痴呆性老人の世界」がきっかけになって、アルツハイマーに冒された老人のことを多くの人々が知るようになった。以来、アルツハイマー症はさまざまな分野で取り上げられ、私たちもいつかは不可避的にそれに関るのだという、漠然とした思いを誰もがいだいいている。

 妻にアルツハイマーが進行したとき、夫はどうするのだろうか。これは妻を真に愛し、精一杯の介護を試みる夫と、寂しい笑顔をときに見せながらも、その症状を自覚し、残された正気の時間を大切に過ごそうとする妻の物語である。友人の計らいで職についたリチャードは、仕事中もユキエが気がかりでならない。妻の徘徊を恐れた夫は、家の外から鍵をかけて出勤していた。誤って火事を出し、炎に包まれているユキエの姿が目に浮かぶ。リチャードは仕事を放り出してわが家に駈けもどる。ユキエはおだやかな表情で編物をしていた。このシーンはいつまでも心に残る。

 長男はアメリカ女性と結婚したが、次男は日本人のヨーコと付き合っている。気持ちのやさしいヨーコは日本に帰ったとき、萩まで行ってユキエの実家を訪ねた。そのことをユキエに告げるが、ユキエにはヨーコの健気さを理解する心がすでに失われている。しかし突然萩のことばになって、母さんは元気だった?と訊ねるのである。もうとうに亡くなっている母親のことを。なんだか切ないなあと思う。いつもはすっとんきょうな役柄を演じることの多い羽野晶紀が、とてもよい。

 そして倍賞美津子のユキエ。異国での長い暮し、人種差別も受けたであろう。ことばや文化の違いに苦しんだこともあったろう。それらの歳月を顔と体にしっかり刻みつけ、日本女性の折り目正しさや、アメリカの太陽や風にさらされた人の皮膚の感じまでも表現する。時には存在も解らなくなってしまった息子に、ふと母親の顔を見せ、「これはあなたたちへのゆっくりしたお別れ、スロー・グッドバイだと思うんよ」というのだ。スロー・グッドバイ、少しずつ、ゆっくりと家族を忘れ、自分を忘れてゆく。これはよい台詞だった。

 ほとんどの会話は英語が用いられ、日本語の字幕がつく。撮影は大半がバトンルージュで行われた。日本のスタッフとアメリカのスタッフの混成チーム、気が遠くなるほどの大変な作業だったであろう。そして、人生とはなんと寂しいものか。扉を開いても、閉じても、そこにたゆたう寂寥のなかに遠い記憶をひそめつつ、二人はじっとベランダに座っている。

 夢を実現させた松井久子さんの第1回監督作品に、心からの拍手を贈ろう。リチャード役のボー・スベンソンの、妻をいたわる人柄がにじみ出るような演技、新藤兼人氏の見事な脚本、96歳のジミー・デイビスが歌う「ユー・アー・マイ・サンシャイン」の懐かしいひびき。

シネスイッチ銀座( 03−3561−0707 )で3月中旬まで上映。

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