連載小説
ヒマラヤの虹(4)
峰森 友人

 濃いサングラスをかけ、ティーシャツこそ白いものの黒のジーンズに黒のウオーキングシューズ、かすかな笑みを浮かべてこちらを見ている女がいる。足元には白いズックのバッグと黒のショルダーバッグ。

 『これはどういうことだ!』

 慶太は自分の目にしたものが信じられなかった。女はためらいがちに一、二歩近寄ると、両手でサングラスをはずし、きまり悪そうに軽く頭を下げた。

 「お待ちしておりました」

 「あなたが?どうして・・・ここに?」

 百合も、不可解な行動の説明に困惑した自分を隠すように、再びサングラスをかけると、

 「すみません、自分でもよく分からないんですけど、来てしまいました」

 と小さな声で言った。慶太は、次にかける言葉を失ったままだった。

 「昨日お食事の時に山のお話やポカラのことをお聞きして、夜いろいろ考えているうちに、ポカラが今私の来たいところではないかと思ったんです。それで、朝ホテルで紹介してもらった王宮前通りの旅行社へ行ってみたら、十二時のネパール航空に席が取れるというので、大急ぎでホテルに戻って荷物をまとめて空港に飛び出しました」

 慶太が後ろから付いてきていないのに気付いたマデュカールが戻ってきて、二人の後ろでじっと立っていた。それに気付いた慶太は、昨晩ポカラとマデュカールの宣伝をしたので、日本の有名なテレビ局のディレクターであるユリ・オオヤマが急きょポカラに来ることになったのだと紹介した。

 百合はまたもや意外な形で、空港から慶太に同行することになった。マデュカールの事務所へ向かう車が動き出すと、百合は声の調子からいかにも恐る恐るという様子で、しかし真剣な眼差しで切り出した。

 「私、実は、佐竹さんにお願いがあるんですけど・・・」

 百合の硬い表情に、慶太は次に来る言葉が全く予想出来ずに、じっと顔を見た。

 「あの、私をトレッキングに連れていっていただけませんでしょうか」

 「トレッキングに?」

 慶太はその言葉に唖然として、ただ百合を見詰めるだけだった。

 「すみません、突然。ただもしかして・・・、ご一緒させていただくことはできないかと・・・思いまして・・・」

 百合は慶太の反応を恐れるように消え入るような声で言った。それでも目はすがるようにじっと慶太を見ている。

 「そりゃあ、誰か話し相手がいれば、わたしも楽しいだろうけど、でも一体どうしたのですか」

 慶太は百合の気持ちを推し量ろうとした。慶太の素性は多少は相手に伝わったとしても、知り合ってまだ一日。それも親しく話したのは昨夜の夕食の時だけである。その百合がまだ十分に正体の分かっていない男に向かって、一週間のアンナプルナ・トレッキングに連れていって欲しいという。ヒマラヤの峰を見たいという一時の好奇心を満たすためならば、近くの山へ日帰りか一泊で行くミニ・トレッキングという手軽な方法もある。

 百合は、慶太が自分の真意を測りかねているのを見抜いたのか、

 「突然の思い付きと思われても仕方ありませんけれど、実は今回の旅は・・・」

 百合は、昨日は全く話したがらなかった旅の目的を語り始めた。それなしでは、なぜ自分が突然トレッキングに同行したいと言い出したかを理解されないと考えたのだろう。

 「実は私、東京の匂いのない所に行ってみたいと思って、そのための休暇を取って今度の旅行を始めたのですけど」

 百合は続けた。最初はフィリピンのどこか田舎をと思って、マニラへ行った。でもマニラ空港に着いた途端余りにも多くの日本人と日本経済の存在を見て、旅の意欲はいっぺんに萎えてしまった。それは大よそ東京を離れたいという気持ちを満たしてくれそうになかったからである。それでもマニラから遠く離れた島にでも行けば様子が違うだろうと思ったが、一人旅の不安も手伝ってどうもそれから先へは行く気になれなかった。マニラには二泊して、バンコクへ移った。だがやはり同じだった。いやマニラ以上だった。そのあたりでは東京から、いや日本の匂いから自由になるなんて無理だということが分かった。バンコクにも二泊して、もう諦めて東京に戻るべきかどうかと迷っていた時、ホテルの雑誌でネパールの写真を見た。『そうだ、ネパールがある』。そしてタイ航空に乗った。

 「そうしたら、空港で佐竹さんのような方にお会いすることになって・・・」

 百合には何か事情があるらしい。東京で何があったのか。社会経験豊かなはずの女性ジャーナリストのかすかに潤んだ目は、自分を救う道は今は一つしかないと訴えているようだった。

 「何か事情があるんでしょうけど、一週間も山に入るとなると、それ以上の時間的余裕と少々の準備が必要です」

 慶太は百合の要望を拒否もせず、了承もせず、必要条件を申し渡すように言った。

 その時車は町の北の山の手にある国連ポカラ事務所に着いた。

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