小さな個人美術館の旅(28)
芹沢圭介美術館
星 瑠璃子(エッセイスト)

 大井松田を過ぎたあたりで、真っ白に雪をかぶった富士が忽然と姿を現した。御殿場、裾野、沼津、富士、清水。こちら側から眺める山容は、いつも見慣れた山梨側とはずいぶん趣が違う。優美で、端正な「東海道五十三次」の富士、柔らかなブルーの空に描かれた模様のような富士だ。うっとり眺めながら走っているうちに静岡に着いた。インターチェンジから美術館はほんのひと走りだ。

 海が近いせいか潮の香りがする、ここは弥生時代の集落遺跡として有名な登呂遺跡公園。復元された萱ぶきの家がのどかに点在して、その間を縫って進むと、丈高い生け垣に囲まれた芹沢圭介美術館があった。染色界の第一人者、人間国宝でもあった芹沢圭介が寄贈した作品とコレクションを展示保存するために市立美術館が開設されたのは1981年、芹沢が八十九歳の誕生日を目前に亡くなる三年前のことだった。静岡は氏の故郷である。

 中に入ると、白井晟一の設計になる石造りの建物は、ほの暗く静まりかえっていた。凝ったモダンな造りなのだが、暗めの照明のせいだろうか、いま通ってきた古代の萱葺の家にいるような錯覚を抱かせる不思議な空間である。ガラスケースに入った作品が、ぽっとそこにだけ明かりを灯したように浮かび上がっている。「天の字のれん」「みのケラ二曲屏風」「座辺の李朝二曲屏風」……。大きな作品から始まって、着物、帯、飾布、絵本といったものまで、芳醇多彩な作品世界が奥へ奥へとつながってゆく。一見、大胆かつ華やかな印象を与えながら、どこか静かであたたかな色と模様。そこから滲みでてくる優しさ、なつかしさ。口数少なく佇む人々にまじって、行きつ戻りつしていると、やわらかな感動がひたひたと心を包みこんでくるようだ。それは、他の美術館で例えば一枚の絵を見て感じる感動とはどこかが違っていた。

 染色にもいろいろあるが、芹沢圭介の世界は型絵染の世界だ。型紙を使って、布の上に置いた特殊な防染糊をつけて染める方法である。ふつうは型彫り、型付け、染めなどをそれぞれ専門の職人が分担したが、芹沢の場合、下絵から彫り、染めまで全てを一人でやった。型絵染という呼び方も、そういうやり方も、はじめてのことだったらしい。

 彼はいつも懐にノートをもっていて、眼につくものは何でもすぐに写生した。花や木、蝶や虫、風景も人間も身近な生活の道具も、時には文字までもが彼のスケッチ帳に素早くスケッチされた。そのスケッチをもとに下絵を描く。何度も何度も描き加え、描き改めてゆくうちに走り過ぎた筆の勢いが取り除かれ、簡素化されたり強調されたりして、図柄が「模様」となって浮かび上がってくる。ここまでが下絵の仕事。それを今度は型紙に彫る。型紙ができれば次は糊置きの仕事である。最後に、糊置きの終わった布地に色をさしてゆく、これが染めの仕事だ。その辺の呼吸を、芹沢は次のように語っている。

 「僕は一体に染というものはこう思うんですよ。下絵をかいて型をほるときは、型紙の本性にその模様をまかせきっていいし、さらにそのできた型紙で糊をおくときは、糊に全部まかせていい。そこでいよいよその糊おきのおわった布地に色をさして、染上げてゆく場合は、いままでの仕事の、下絵のもつ美しさも、型紙の美しさも、糊の美しさも、すべて綜合されて、最後にのこる布地のみが美しく染め上がっているような、そういうものが、染の仕事の理想だと思うんです」

 「僕は、自分などは品物のかげにかくれてしまうような仕事がしたいと思うのですが、それをやるにははっきりと、そのできてくる品物をいつもひきうけてくれる確固たる存在が必要なんです。そういうものが明らかでない限り、健全な工芸は決して生まれようがない。工芸家として立ってゆくただひとつの途が展覧会の形式しかないとすると、どうしたって品物と品物の良さで競うということより、その作者の個性と個性の競争ということが必要だし、そうすれば、品物がそれについてゆかないで、作者の意識のみが出てくるようになり勝ちだと思うんです。つまり過剰になる作家意識がその作品をゆがめることになると思う」(『月刊民藝』1940・1)

 なるほど「工芸」とは、こういうものか。個性とか作家意識とかを捨てたところに本当の美しさが生まれる。「絵」を「染」でやるのではなく、「染」のなかから生まれてくる「絵」。さまざまの工程を経ることによって、生ま生ましいものや余分なものが削ぎ落とされてしまった後の爽やかな世界。それが芹沢の世界だ。

 最後の部屋では、有名な「芹沢コレクション」の展示が行われていた。年に三回展示替えをしても、全部を見せるのに六年以上はかかるという膨大なコレクションのうち、この日はインドの染色品がサリーやターバン、飾り布、ミニアチュールの絵本や木工品によって行われていた。だれがつくったともしれぬ精巧で緻密で、美しさの極みとでもいうべき、これが伝統というものか。

 ほの暗い空間の中で、どのくらいの時間が経ったのだろう。出口近くになってふと振り返ると、これまで通ってきた部屋々々が、アーチ型の仕切りを微妙にずらしながら連なっているのが見えた。なんという見事な設計、と思わず立ち止まると、学芸員の沼本芳喜氏が、片側にずっしりとかけられた分厚いカーテンを指して言った。「じつは、こちら側は全部窓なのですよ。開けると光の量が多すぎて作品が傷んでしまうので、普段はこうして閉めているのです。展示スペースも足りませんし」

 さっきまで壁面かと思っていたドンゴロスのカーテンをずらすと、そこもアーチ型の木枠の大きな窓になっていて、コの字に囲まれた中庭は、なんと美しい池であった。真ん中に噴水がある。「石水館」と呼ばれる美術館の由来がはじめて分かった。ここは本当は、石と水で作った美術館なのだ。なかには芹沢の美しい布がかけられ、ふんだんに差し込む日の光と、水の波紋にゆらゆらと揺らめいている。そんな光景が幻のように浮かんで、消えた。

芹沢圭介美術館

 住 所 静岡県登呂5−10−5(登呂公園内) TEL 054‐282‐5522
 交 通 JR静岡駅北口より登呂遺跡公園行きバスで終点下車、車の場合は東名静岡インターより10分
 休館日 月曜日(祝日の場合はその翌日)と毎月未日、年末年始及び年三回の展示替期間

星 瑠璃子(ほし・るりこ)

 東京生まれ。日本女子大学文学部国文学科卒業後,河出書房を経て,学習研究社入社。文芸誌「フェミナ」編集長など文学、美術分野で活躍。93年独立してワークショップR&Rを主宰し執筆活動を始める。著書に『桜楓の百人』など。

このページについてのお問い合わせは次の宛先までお願いします。
www@hb-arts.co.jp