国葬について考える
牧念人 悠々
ブログに次のように書いた(15日)。「安倍晋三元首相の葬儀を国葬で執行される。与党は賛同。野党は冷静に受け止める。古来、日本人は人の死に対しては謙虚である。岸田首相は「国葬儀を執り行うことで、安倍元総理を追悼するとともに、我が国は暴力に屈せず、民主主義を断固として守り抜く決意を示します」と説明する。安倍元首相が憲政史上最長の8年8カ月その職につき、東日本大震災からの復興、日本経済の再生、日米関係を基軸とした外交などで実績を残したという。立憲民主党の泉代表は「国葬については、その性質から厳粛に行うものであり、元総理のご冥福を祈りつつ、静かに見守りたい」とのコメント。日本維新の会・松井一郎代表は語る。「反対ではないが、安倍元総理と家族が望まれているのかと懸念を持っている。大々的にやる分、経費もかかるので、批判が親族・遺族に行かないことを願う」
国葬は国家に功労のあった人の死に際し、国家の儀式として、国費をもって行われる葬儀である。戦後、天皇・皇后以外で国葬が行われた初めての例は、1967年10月31日東京、九段・武道館で行われた吉田茂元首相(昭和42年10月20日死去・享年89歳)である。吉田の葬儀は、閣議によって国葬と決まった。
当時私は社会部のデスクであった。吉田さんの国葬の日は夕刊担当であったので名文書きで知られる吉野正弘記者に吉田さんの長男、英文学者、吉田謙一さんに「父を偲ぶ」の原稿を頼むよう命じた。国葬の式次第は一面に掲載、社会面全面を潰して吉田謙一さんの原稿でうずめた。夕刊早番に掲載された吉田健一さんの原稿を見て当番の編集幹部が私のところに来て少しばかり文句をつけたが私が「今日はこれで良いのです」と自信たっぷりにいう答えにそのまま引き下がった。夕方になって新聞協会に集まった各社の編集局長が「今日の毎日の夕刊の記事は出色であった」と激賞したというでことが収まった。
「新聞の取材は牛のように粘り驚くときは馬のように驚け」という。時には読者が驚くような紙面を作るのも愉快なものである。要は時期に適した記事である。名文であればなお良い。