銀座一丁目新聞

花ある風景(

頼朝の罵詈雑言

相模太郎

お断りしておくが、この話は約10年前、本誌に寄稿したものだが、おりしもNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で源平合戦が放映されるので多少付言しながら再度ご参考に掲載させていただいた。

戦前まで、「統帥権(とうすいけん)」という言葉があった。当時は天皇の命令は絶対でそれが軍隊の命脈であったが、その命令を逸脱するのが「統帥権干犯(かんぱん)」だ。恐れ多いが、これに似て頼朝も鎌倉幕府で絶対の権力を持ち、政治を行ったのはご承知の通りだ。頼朝政治の基本は、あまたの家人に奉公を尽くさせ、その代わり各々の所領を安堵する(護ってやる)という絆(きずな)であった。現代の暴力団と同じと言う学者もいるが、確かにそれに近い。親分子分の絆、つまり幕府の命脈を保つのに腐心しただろう。その絆を破ったのが源平合戦終了後、京へ凱旋してきた武将たちの一部に起こったのが干犯事件であった。

本来、頼朝は、家人たちが朝廷から官位を授けられる規律として、まず頼朝が本人の手柄の状況をみて朝廷に推挙し、それを朝廷が信任した後、頼朝より官位を伝えるという規律がある。勝手に直接朝廷から戴くことは頼朝をないがしろにするもっての外の所業、統制を乱された頼朝が怒るのは無理もない干犯事件なのだ。鎌倉時代前期の北条氏が編纂した公的史書、吾妻鏡によれば「お前たちはろくに手柄を立てないのに、勝手に衛府や所司の官位をもらって、とんでもない奴らだ。自領に帰って来るな。これからは昼夜通しで、朝廷の仕事でもしていろ。もし、墨俣川(当時の関西、関東の境)以東を踏んだら領地没収、または斬首だ」と。故郷へ合戦で手柄を立て官位をもらって箔をつけ、錦を飾って凱旋するのを夢見ていた親分連中に厳しい申し渡しをしたのだった。

頃は1185(元暦2)年4月15日、怒り心頭の源頼朝の部下に対する罵詈雑言が吾妻鏡に記されている.源家の貴種(きしゅー貴い家柄の生まれ)、武家の棟梁としてここに掲げた例は、やや品格を欠くが、時代は変わっても大して変わらぬ言葉づかいで面白い。摘発されたのは武将とはいえ、もともと伊豆や坂東などの荒くれ親分であり、武力はあっても、文字があまり読めるのも少なく、教養のある連中ではない。大部分を記載するが、読者の縁のある所もあると思い()は出身の本領、賜った官位は{}で入れてある。念のため原文の名前も苗字を着け、平易にしてある。頼朝の怒りの言葉には東国の「御家人」と言わず「住人」といっている。以下名指しされた武将をあげる。

兵衛尉義廉(木曽)本来義仲の家来、義仲に仕えた時は頼朝の悪口を、義仲討伐後、落人になるところを頼朝に拾われ、今度は勝手に官位をもらう悪兵衛尉(あくひょうえのじょう)め。{兵衛尉(ひょうえのじょう)}
佐藤忠信(福島市)奥州藤原秀衡の家来が官位をもらうとは前例がない。分際を考えろ。鼬(いたち)にも劣る。猫ともあり。(兄の継信と奥州藤原秀衡の命により、源義経に同行し、源平合戦に参戦、義経失脚後、京都に潜伏、頼朝の追っ手で自害)(信濃善光寺山門横にも供養塔){兵衛尉}
渋谷 重資(神奈川県高座渋谷から東京都渋谷)平家に着いたり、木曽義仲に着いたり、源平合戦で源氏に着いたり、今度の所業、斬首だが、鍛冶屋に首の金具つくらせ巻いておけ。{馬允}
小河 不詳(埼玉県比企郡小川町)やっと、勘当を許してやったのに。仕方がない奴、身分に合わず、なんのための任官か。{馬允}
後藤 基清(京都)目がネズミ目、ただ、いるだけのやつだが、任官できたのは珍しい。(頼朝の父義朝よりの家来){兵衛尉}
波多野 有経(神奈川県秦野市)木曽義仲についていたが勘当された大した奴ではない。{馬允}
梶原 友景(神奈川県鎌倉市)しわがれ声で、後ろ髪の格好が刑部(ぎょうぶー官位)のガラでない。(梶原景時の弟){刑部尉}
梶原 景高 人相悪く、ろくでなし。任官誠に見苦しい。(景時の次男){兵衛尉}
梶原 景貞 合戦でよく手柄を立てたので、特別可愛がってやろうと思っていたのに勝手なことをした奴め。(友景の子){兵衛尉}  
中村 時経(埼玉県大里郡寄居町)大ぼら吹きで身分を考えず、身の程知らず官位好み、いくさは負けるし、だらしいない奴よ。{馬允}
海老名 季綱(神奈川県海老名市)もと平家の家来だったのを許してやったのにどうしたことか。{兵衛尉}
本間 能忠。(神奈川県厚木市)もと平家の家来だったのを勘弁してやったのにどうしたことか。子孫は山形県酒田市の豪商「本間様には及びもせぬが攻めてなりたや殿様に」となる。{馬允}
豊田 義幹(茨城県水海道市)色白でボーとした顔、ただ働いているだけの者の任官はまれだ。父もよく参上に遅刻したな。{兵衛尉}
平山 季重(東京都八王子市)顔がフワフワしていて、よく任官ができたな。{右衛門尉}
宮内 舒国 鎌倉入府に際、大井(隅田)の渡しの渡河で悲鳴をあげた臆病者、任官など見苦しい。{宮内丞}
山内 経俊(神奈川県鎌倉市)官職好みの奴め、無益だろうに。{刑部丞}
八田 朝家・小山 朝政(栃木県小山市)両人、九州へ進撃し、京へ帰って来る時、鈍いのろまの馬が道草を喰っているようだった。{右衛門尉}{兵衛尉}。
(註)衛門尉―宮中の左右等、六衛門の警護、行幸の供奉をする役人
   馬允―厩をつかさどる役人

以上頼朝の怒りが目に見えるようだ。やはり、すじを通さぬことは統制をみだすもとであるが、それを承知で官位を与えたのが朝幕離反を腹に持つ後白河法皇なのである。頼朝もそれを承知、法皇を「天下の大天狗」と。これから頼朝と後白河法皇の虚々実々、鎌倉幕府、京都朝廷、東西の駆け引きが始まるのだ。裏読みしていただくと面白い。ちなみに後世、法皇の孫、後鳥羽上皇の北条義時(鎌倉幕府)への敵対は遂に承久の乱に発展する。

頼朝が罵詈雑言を浴びせた連中で後日、義経の従者だった佐藤忠信以外は、本当に誅されたものはいない。そしてなんとなく許されたのか本領に帰っている。頼朝の怒りはどうなったのか?わからない。もっとも折角集めた親分連中を以上のように多く誅したら子分を含め兵力が大削減してしまう。

吾妻鏡の元暦2年4月15日の項には、源平合戦後の武将のことは出てくるが侍大将の源義経の処分については書いてない。義経は別格の処罰で、後白河法皇より官位、昇殿を許されていたのだ。また頼朝より厳命のあった三種の神器奪取のうち、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を取り損ね、片瀬腰越まで凱旋するが頼朝は鎌倉入城を許さず、その後後白河法皇の陰謀に組み込まれ、ついには追討という厳重な処罰により奥州平泉で最後を遂げた。

苦言を呈するが 「NHK鎌倉殿の13人」ドラマでは登場人物が多く、役の名前の字幕をもっと頻繁につけ、せっかくの大構想のドラマが惜しい。誰が誰やらよくわからない。まして視聴者の地元の武将、伊豆や坂東に鎌倉殿の13人のうち10人いる。ほかにも(伊東祐親、大庭景親、畠山重忠、上総広常、熊谷直実等)、その他(武田・佐竹・奥州藤原一族等)も出てくるので興味津々、再三お願いするが、ぜひ挿入してもらいたい。(鎌倉在住者)

(参考文献)
全訳 吾妻鏡   新人物往来社
源 頼朝のすべて  奥富 敬之著  新人物往来社
源 義経のすべて    々       々
武蔵の武士団    関 幸彦 著  吉川弘文館
相模の武士団      々       々