銀座一丁目新聞

茶説

痩蛙負けるな一茶ここにあり

牧念人 悠々

「痩蛙負けるな一茶ここにあり」。
この句を詠んだのは一茶。8歳の時を回想して作ったと言われている。今の私の場合は「痩蛙」も励ますも私自身である。体重は53キロから46キロに減った。身長も162センチから157センチと低くなった。老いの身をまざまざと見せつけられる。

「我と来て遊べや親のない雀」
「雀の子そこのけそこのけお馬が通る」

一茶(1763年、信濃北部の農家生れ)の家は中くらいの自作農であった。この土地は痩せた火山灰地であったため、生活はあまり楽ではなかった。一茶が3歳の時に母をなくす。一茶の父は再婚。その後、義理の母から弟が生まれ義理の母と弟とは仲が悪かった。15歳で故郷を出る。

「人一人蠅も一つや大座敷」

大屋敷の中で蠅も人も同じである。「弱気もの」それは「老人」。一茶である。
25歳の時葛飾派俳人の門人となり、その後28歳で溝口素丸に入門する。はじめて結婚したのは52歳の時である。

「五十婿天窓(あたま)かくす扇かな」

男の子の子供ができたが、大変な虚弱児でその後1ヶ月足らずで男の子は亡くなる。その後も3人の子供を生れたたが全て亡くなった。ついには妻まで病でなくしてしまう。

「出て行ぞ仲良く遊べきりぎりす」
「おとなしく留守をしていろきりぎりす」

妻が亡くした後、2度再婚したが、子供は最後の妻との間にできた娘だけが残る。 一茶は58歳の時に脳卒中で倒れ半身不随になり、そして家が火事にあうなど波乱な人生を送り、1827年(文政10年)11月19日に病没、享年65歳

「花の陰あかの他人はなかりけり」一茶