ある時の石原慎太郎と梶山静六の会話
並木 徹
昔、練達の武士は相手とすれちがっただけで相手の人柄・技倆がわかったという。2月1日に死去した石原慎太郎氏は常に国のことを考えた政治家であった。89歳でこの世を去った石原慎太郎にこのように評価したマスコミはなかった。この国の人々は主権・有事に極めて鈍感である。石原慎太郎と梶山静六(平成12年6月6日死去。享年75歳)の間にこんなエピソードが残されている。竹下内閣のとき(昭和42年11月から平成元年6月まで)石原さんは運輸大臣、梶山さんは自治大臣であった。恒例の正月の内閣の伊勢神宮に参拝したあと、近鉄の車内で石原さんが秘書官に買わして用意したワンカップとつまみを隣りに座っていた梶山さんに差し出した。梶山さんが相好を崩したのは言うまでもない。これ以来二人は派閥を超えた友情が芽生えたという。もちろんそれまで石原さんは梶山さんについては『会っていて話していて男の匂いのする、男として懐かしい男であった。陸軍士官学校(陸士59期)に学んだという経歴はやはりその人柄の芯似あるものを明らかにしていたと思う』と書いている(追悼『梶山静六』・愛郷無限)。
平成11年5月。台湾での大統領選挙を妨害干渉しようとして中国がミサイル発射による威嚇をした。そのことがきっかけとなってアメリカの発案で日米安保のための新しいガイドラインが発効された。このとき日本の政治家の殆どが『日本周辺』という文言の解釈の中に台湾を入らぬとしようとしたが政府与党の幹部の中で一人梶山官房長官だけが日本の周辺の地図を見れば自明のことだ。台湾は日本にとって最も間近な周辺国ではないかと言い切ったという。男の中の男と石原さんは評価する。この言葉はそのまま石原さんに通じる。
『物議を起こす人』という評価が強いがそれは表面しか見ない人の言うことである。
スポニチの阿部公輔記者はアポ無して石原邸を訪れも一度は怒鳴られるが粘っていると最後は『まだいたのか』と会ってくれたという。令和の時代は『先見性が必要で大切なのは個性だ』と石原さんの言葉を書いている(スポニチ)。