銀座一丁目新聞

追悼録(

嗚呼 戦友

柳 路夫

戦友の歌(歌詞・真下飛泉・曲・三善和気)
「嗚呼、戦いの最中に
隣りにおった この戦友(とも)の
俄にハタと倒れしを
われは思わず駆け寄って」(3番)

この歌が歌われたのは「日露戦争」が終わった明治38年9月である。真下は京都市の小学校の先生、三善は音楽の先生であった。歌いやすく哀調の帯びた歌である。

昭和18年4月埼玉県朝霞の陸軍予科士官学校に入校した59期生は今や生きてものは1割に満たない。同期生北俊男君(故人)は会合では必ず14番まである「戦友」を最後まで歌い上げるのを常とした。場所は彼が愛した三軒茶屋の中華料理店であった。

「ここはお国の何百里  
離れて遠葵満州の  
赤い夕日に照らされて  
戦友(とも)は野末に石の下」(1番)

高粱畑に夕日の沈む風景は忘れ得ない。私の大連2中から59期生は幼年学校より進んだものを含めた7人を数える。予科時代同じ中隊に東京幼年学校に進んだ加藤四郎君と一緒になった。戦後彼は阪大医学部に進み著名な先生になった。彼のおかげで別所末一君など得難い人たちと知り合いになった。

「思えば悲しき昨日まで  
真っ先駆けて突進し  
敵をさんざん凝らしたる  
勇士は此処にねむれるか」(2番)

靖国神社に祀られている同期生は13柱である。いずれも航空士官学校に進み満州で飛行訓練中に倒れたものである。2名はソ連に抑留中に病死。飛行訓練中殉職したものもいる。

私が同期会の代表幹事であった時(平成23年)。大会前靖国神社に昇殿参拝して13柱の慰霊祭を行なった。祭文を読んだのが後藤久記君(故人)であった。その中で同期生の悲しい出来事を述べた。終戦時、後藤君のいた杏樹飛行場はソ連国境と近いこともあって転進が遅れ牡丹江駅で待機中、ソ連の飛行機の銃撃を受け武山利起夫君と仏性泰二君がなくなった。昭和20年8月14日17時40分のことであった。

「戦いすんで日が暮れて  
探しに戻る心では  
「どうぞ生きて居て呉れよ  
物など言え」と願うたに」(7番)

戦後76年。戦いすんで日がくれた。いまは同期生会の世話人も二世会に委ねている。
「空しく消えた魂は  
故郷(くに)へ帰ったポケットに  
時計ばかりがコチコチと  
動いているのも情けなや」(8番)

私は時計を持たない。スマホで代用している。スマホの扉を開け下のボタンを押すと年月日と万歩計と時計が現れる一番下に時刻が表示される。コチコチという時計の音が懐かしい。スマホを手にして戸惑っている自分が情けない。

「秋深しスマホ手にして眺めおり」悠々