銀座一丁目新聞

安全地帯(

府中に住んで66年の感慨

信濃 太郎

コロナ禍で自宅に引きこもっているとさまざまな騒音が耳に入る、朝はゴミの収集車、ゴミを集める作業員の足音、荷物を運ぶ配送車。時には子供の騒ぐ声も聞く。昭和40年代にできた東八道路からは車の騒音、救急車のサイレン。しばしば飛行機のプロペラの音を聞く。近くに調布飛行場があるせいである。「騒音」というより「生活音」といっても良いかもしれない。府中には昭和30年3月から住んでいる。

ここは元花火工場があった。花火が爆発して10人ほど死者が出た。入居してまもない頃、庭を掘り返したら骨が出たという話を聞いた。私はこの花火工場の爆発時を取材している。毎日新聞の関連会社がここに47軒の社員用の住宅を立てた。敷地の広さで多少値段の高低があったが当時頭金が15万円、残り20万は月賦払いであったと記憶している。すべて入居者は毎日社員であった。今は毎日社員はおらずその子供か他所から来た人たちである。2軒アパートが作られて、若い人たちが住んでいる。私の周り9軒について見ると、空き家2軒(ここに5,6千万円の家が立つ予定)、他の7軒は大きく変わった。昔は中央線国分寺南口からタクシーに『毎日住宅へ』といえば行ってくれたが今は全く通用しない。

昭和48年平屋から2階建てに立て直した。庭のみかんの木は義父が新築祝いに植えたものである。時々みかんをたくさん実らせる。11月中旬頃息子に取ってもらう。ある時所沢の小学校校庭から飛ばした記念の風船が引っかかっていたので通報したら感謝された。西部代表として北九州市に赴任した7年間ほど友人に家を貸した。本当は3年ぐらいで大阪転勤の話があったがやっかむものがいて実現しなかった。「九州生活」は堪能した。

なくなったが近くに居を構えるご婦人が猫好きで野良猫に餌をやるので野良猫がその家へよく集まるようになった。野良猫が至るところに糞を垂れる。とくに我の庭は被害を受けた。苦情いったところ市の動物愛護団体の役員と我が家へ抗議に来た。『餌をやるのがどこが悪いのか』という。こちらは「人間が快適な生活を送る権利と動物愛護と比較考量してみればはっきりするではないか」と反論した。旦那は私の大連2中の同級生・高橋光男君と予科練の同期生で、回転特攻隊員であったが出撃直前で終戦となった。

この地区の絆は昔ほど強くないが万一の場合はお互いに助け合わねばならないと思っている。避難場所は近くにある東京農工大学である。私はまっさきに逃げず周りの人たちが避難したか確認せてからにしようと覚悟を決めている。私が一番古狸であるからである。

ゆく歳月は幾多の人生模様を描きながら過ぎてゆく。太陽は東から出てきた西に沈む。われに一杯の水と一碗の飯があればよい。それ以上の贅沢は望まない。