権謀術策の北条時政とスパイ事件
相模 太郎
来年はNHK大河ドラマに「鎌倉殿の13人」の放映があるそうだが、鎌倉在住の者とし、おおいに期待している。それに先んじ、素人の実地踏査による違った見方、挿話や、中世史の大家、故奥富隆之先生より「吾妻鏡」を学び、興味あり、その受け売りだが、来年聴取のご参考になれば幸甚である。
平治の乱に父源義朝に従った14才の三男頼朝は敗戦、逃路で平家軍につかまり、かろうじて平頼盛の母の嘆願で、清盛に殺されず伊豆へ配流される。雌伏20年頼朝のお目付け役伊東祐親の娘八重姫と恋仲となり千鶴丸という子までもうけたが、折あしく京都大番役に勤めていた父が帰郷し、子は簀巻きにして狩野川へ、放り込まれてしまう。八重姫は他所へ嫁がせられたが、悲嘆して入水してしまう。次に同じく頼朝の見張りの役だったのが、北条時政である。頼朝は前例にもめげず長女の政子をものにした。頼朝31才、政子21才治承元年(1177)であった。やがて娘大姫が誕生した。岳父時政は、直情径行な祐親と違い権謀術策の野心家で、流人頼朝の将来に娘を賭けたのであった。
北条氏の伊豆は現在伊豆の国市の北条付近を根拠に持つ土豪であった。出自は桓武天皇の平氏平直方より五代の後胤ということになっている在庁官人(土豪の役人)だったのではないのかという。当地は、北条・中条・南条とあり、北条が主(あるじ)だったと言うところは現在伊豆の国市寺家(じけ)あたりであるが、大した広いところではなく、お世辞にも大豪族のいたところとは思えない。現在、時政の墓のある願成就院、頼朝が旗揚げしたといわれる守山八幡の裏山と狩野川の間の谷戸に館(やかた)があったと思われる。政子産湯の井戸も近くにある。付近は源氏・北条をはじめ中世・近世の遺跡が極めて多く、短日で実地踏査はできないほどで読者諸氏に興味のあるかたは、ぜひ温泉でも泊って車か自転車でゆっくりお調べすることをお進めする。
ここで鎌倉時代前半の幕府準公的記録が吾妻鏡と言われているが、残念ながら、現在稱名寺や、かつての金沢八景のあったところにいた北条一族金沢氏が日記風に編纂したものらしいので、北条氏に都合のいいように書いてあり、脱漏もあり全部は信用できず、当時の京の公家の日記や古文書などで照らし合わせる必要があることをお断りしておく。
頼朝の挙兵は、治承4年(1180)8月17日子の刻(午前零時)、北条時政以下の近隣の土豪とともに緒戦に代官山木兼隆を討ち取ったが、その後熱海・箱根等で圧倒的な平家の軍勢に敗北、海路安房へ逃亡、政子も雨のなか山中を潜行、伊豆山神社に逃げ込んでかくまわれ、苦労したらしい。その後頼朝一行は、真鶴より父義朝の威光のあった房州へ命からがら舟で逃亡、再起をはかり、東京湾沿岸を途中、反平家の豪族を味方につけ鎌倉を目指して進撃し、ついに治承4年(1180)10月7日に入府を果たした。
その後、鎌倉幕府を開いた頼朝は、配下の御家人に所領安堵をしてやる替わりに奉公を約束させ絆(きずな)とした。親分、子分のヤクザと似ている。とにかく初代はこれでもったが、正治元年(1199)正月13日頼朝が謎の死(諸説あり)を遂げ、偉大な権力を持った父と違うボンボンの二代頼家の時代になる。その機会に、専制的な頼朝政治に黙って服従していた13人の主(おも)だった御家人が、宿老会議を組織して、将軍頼家の幕政の権力にブレーキをかけ介入するように決めてしまう。これが、NHKの「鎌倉殿の13人」だ。「鎌倉殿」とは正式には、鎌倉時代の頼朝、または将軍になった人を呼称する。
たしかに、二代将軍頼家は問題児だが吾妻鏡の中で言われるほど問題があったのか疑問であり、北条初代執権の祖父時政が悪評をひろめていたことは間違いない。有力御家人の奥方に懸想し、その夫を殺そうとして、政子に怒られたり、陸奥の国葛岡郡の土地争論の図に筆で一本線を描いて評決して訴人につきつけたり、蹴鞠など放蕩三昧もしたらしいが、祖父にあたる時政を疎んじ、「時政、時政」と呼び捨てにし、うまが合わなかったのも事実らしい。頼家の暴虐をそそのかしたワル手先が5人、遊ぶには重用されていた。頼家もこの5人の所業はたとえ狼藉をしてもとやかく言ったものは罰し、またほかのものは頼家の御前に参集してはならないと無理難題のふれを出す。
取り巻きの5人のなかに中野能成(よしなり)(長野県中野市出身)という武士がいた。ある時、頼家が病にかかり生死の境をさまよっていた時、時政は頼家が死亡と朝廷に届け出て、頼家の弟実朝を三代将軍としてしまった。専横の時政の所業に怒ったのは頼家と岳父の比企能員(ひきよしかず)の一族である。時政を討つべく準備させたのを政子が探知し、父時政に告げる。好機到来とばかり時政は、逆に比企一族の館(現在妙本寺のある比企が谷)を建仁3年(1203)9月2日襲撃、滅亡させてしまう。頼家の妻、能員の娘で頼家の妻、若狭の局とせがれ一幡も戦火の中に、一幡は小袖だけが残っていたので小袖塚として葬られている。ちなみに境内には後世、江戸づめで亡くなったと思われる前田利家の妻まつの墓もある。
比企氏はかつての埼玉県比企郡一帯の大豪族で、比企の尼とよばれる能員の義母は、頼朝の乳母であって、伊豆に配流されていた時も、経済的に援助した恩人である。反抗の理由は、将軍の地位をはく奪された頼家と比企が謀反を企て逆に北条に抗したので討滅したと吾妻鏡に書かれてある。ところが頼家は奇跡的に病が快復したが、現在の感覚でいえば、血も涙もない祖父の時政により出家させられ、伊豆修禅寺へ幽閉、元久元年(1204)7月18日時政の発した刺客によって浴室で惨殺された。23才であった。後に政子は修善寺温泉にある頼家の墓のそばに指月殿という堂(現存)を建て菩提を弔っている。頼家の行状は、つまり比企能員が悪かったのだと吾妻鏡には書かれている。そのあと、9月4日頼家取り巻きの中野能成を初めとするワル家来たちは拘禁、所領没収、遠流されたと吾妻鏡にあるのだが、後世、天網恢恢、拘禁と同日付けで次の下文(くだしぶみ)が残されていたのである。
信濃国の住人中野五郎(能成のこと) 本所を安堵せしむべきの状 件の如し
建仁三で年九月四日 遠江守(時政のこと) 花押
竹内理三 鎌倉遺文1378
23日には能成の所領を没収したのは表向きであって、頼家の側近に潜入の今回のスパイ活動について、悪行をそそのかし、情報報告していた褒章として能成の持っていた領地を安堵するのはもちろんだが、おまけに別に、能成の持っていた志久見郷(栄村志久見)の公事(くじ)(雑役・税)を免ずる時政の下文(略)まで残っていたのである。(鎌倉遺文1381)による。時政の陰謀、諜報活動は完全に成功した。しかし、この古文書により、悪態をする頼家を書いた吾妻鏡が北条氏に良いように書いた嘘だったという証拠になった。
時政の策謀はまだまだ続く。阿野全成(義経の長兄)、梶原景時一族、畠山重忠親子、稲毛重成(政子の妹婿)兄弟等々、時政が、あらゆる手段を弄し暗躍、邪魔な重臣などを次々に排除し、北条幕府興隆、初代執権の地位を築いたのであった。最後は後妻の牧の方による娘婿の平賀朝雅を将軍に擁立する陰謀を画策、将軍実朝の地位まで危うかったが、こればかりは、政子と弟義時により、諫言、抵抗され、元久2年(1205)㋆20日伊豆に出家、隠棲させられた。深読みすれば、北条興隆、源家打倒を秘めて、孫の三代将軍実朝殺害事件にも関与していたのではないかと愚考する。希代の梟雄(きょうゆう)(残忍で強い人)は現在、伊豆の国市願成就院(がんじょうじゅいん)墓所に眠る。
同寺は、平成25年6月19日、収蔵の下記5体の仏像が彫刻では中部地方で、はじめての国宝に指定された。願主は北条時政。いずれも文治2年(1185)運慶作の銘があり、時政が岳父として鎌倉幕府の絶頂期にさしかかる野望満々のころの寄進と思われる。仏像は次の通り。
木造阿弥陀如来坐像 童子立像 2体
木造不動明王像 木造毘沙門天立像
なお、余談だが、現在副住職の次女の方のご主人は、日本語堪能のイギリス人だそうで僧衣をまとい突然お会いしてビックリした。
(参考文献)鎌倉北条氏の興亡 奥富敬之著 吉川弘文館
奥富敬之著 吉川弘文館
鎌倉北条一族 奥富敬之著 新人物往来社
源氏三代101の謎 奥富敬之著 新人物往来社
全譯 吾妻鏡 貴志正造訳注