久保田万太郎を偲ぶ
柳 路夫
作家・俳人・久保田万太郎のなくなった日を「傘雨忌「という(5月6日)。明治22年(1889年)11月7日東京・浅草生まれ、昭和38年(1963年)、この世を去った。73歳であった。この時、私は37歳。社会部の遊軍記者であった。久保田万太郎が言った「その場にふさわしい俳句は一句しかない」という言葉は忘れられない。日頃雑感の書き方で悩む私には「その現場を描写するふさわしい文章は一つしかない」と感じたからである。現場を文章で表現する場合、切り口は色々あるわけだが適確に切るのは唯一つしかないのだ。それ以来久保田万太郎は尊敬する俳人となった。
万太郎の俳句で好きな俳句の一つが
「竹馬やいろはにほへとちりち゛りに」である。
東京・台東区の浅草寺の境内にその句碑がある。久保田万太郎は「俳句は浮かぶものだ」とよくいった。ある祝賀会で女優の霧立のぼるが久保田万太郎に酌をしようとした。その爪が真っ赤にマニキュアされていた。久保田万太郎はすかさず
「秋風やおろかに染めて爪赤く」
と読んだ。頭の中が5・7・5で整理されているようだ。
大正時代のある雑誌に久保田万太郎のアンケートが載っている。その中で「好き」―人物(全て聡明な人間)、花鳥(桜、ことに八重のもの)、食品、(油っこきもの)。「嫌ひ」―人物(大げさな人間、他人の心持ちをいたわらない人間)、花鳥―(躑躅)、食品―(なまぐさきもの)
代表句
「湯豆腐やいのちの果のうすあかり」
「さみしさは木をつむあそびつもる雪」
「連翹やかくれ住むとにあらねども」
などを読めば久保田万太郎が頭脳明晰で思いやりがあり意外と淋しがり屋であったのが分かる。「久保田万太郎」(文春文庫)の著書のある戸板康二は「寂しい人であった。人懐っこい人であった。興味の尽きない人であると同時に類のないよさを持っていた」と評す。
久保田万太郎が昭和21年に創刊した俳誌「春燈」は安住敦、成瀬桜桃子、鈴木栄子主宰で今日まで続く。2021年4月号には久保田万太郎の新年の句が掲載されている。
「まゆ玉のしだるる下のよき眠り」(昭和35年)
「元旦やうすく置きたる庭の霜」(昭和36年)
「しだれけり大繭玉のおもふさま」(昭和37年)
久保田万太郎の墓は東京・文京区本郷・巨峰山喜福寺にある。五輪塔に自筆で「久保田万太郎の墓」と細字で刻まれている。
「万太郎忌ことしのあやめ咲く遅し」成瀬櫻桃子