銀座一丁目新聞

茶説

もののあわれということ

牧念人 悠々

5月5日は端午の節句。本誌の表紙の写真も鯉のぼりである。端午の行事は中国の隋唐時代にあったものでそれから日本へ渡ってきたからかなり古い。子供の頃よく「鯉のぼり」の歌を歌った。「甍の波と雲の波 重なる波の中空に 橘かおる朝風に 高く泳ぐや 鯉のぼり」。生き生きした鯉のぼりの様子がよく出ていて日本情緒豊かである。

唐の時代、このころは梅雨で悪疫が流行する時期なので悪疫よけの行事が行なわれた。薬草の菖蒲で菖蒲酒をつくたり竹の皮でチマキを作って食べたりしている。鯉の吹き流しは江戸・天保の頃からと言われる。しきたりとしてオスの黒い真鯉を上に上げるものとされているが昨今ではメスの緋鯉を上に上げているところもある。女性の社会的地位の向上が叫ばれている昨今、好ましい傾向ではある。

「コロナ禍や緋鯉上なる鯉のぼり」悠々

藤原正彦さんがその著『国家の品格』(新潮新書)の中で自宅に遊びに来た米国の大学の教授が虫の声を聞いて「あのノイズは何だ」と聞いた。外国人にとって虫の鳴き声は雑音としか聞こえないということを書いている。さらに日本人は虫の音を音楽として聴き、そこにもののあわれさえ見いだしていると書き加えている。昨今日本人も外国人の耳をもつものが少なくないようである。

つい最近「カエルの鳴き声」で裁判沙汰が起ききた。世の中がたしかに変わった。隣の住宅から聞こえるカエルの鳴き声で精神的な苦痛を受けたとして、カエルの駆除と慰謝料を求めた裁判の判決が東京地裁であった(4月23日)。私などここ数年蛙の声を聞いていない。東京・板橋区に住む男性が、隣の住宅で繁殖したカエルの鳴き声で精神的な苦痛を受けたとして、隣の住民を相手取り、カエルの駆除と慰謝料75万円の支払いを求めた。 訴えで原告の男性は、「毎朝7時前から鳴き始め、日没後は多数で鳴き、深夜まで続いた」「カエルの鳴き声を測定したところ、東京都が定める騒音の環境基準を超える66デシベルだった」と主張。一方、隣の住民は「鳴き声は自然音で、騒音に該当しない」と反論した。東京地裁は23日の判決で、「カエルの鳴き声は自然音の一つ」と認めた上で、「仮に、原告が主張するような音が発生していたと認められるとしても、受忍限度を超えるような騒音とは認められない」として訴えを退けた。当然の判決であると私は思う。芭蕉は「古池やカエル飛び込む水の音」と読んだ(1686年=貞享3年「蛙合」)。当時、上5を「山吹や」にするか「古池や」にするかで揉めた。それから335年、今度は「鳴き声」が問題となる。悠久の自然と儚い人生の対比の中に美を発見する感性、「もののあわれ」の感性は日本人がとりわけ強かったはずであった。日本人も変わった。

もう一つ疑問に思うのは何故新聞がこのニュースを大きく扱わないのかという点である。現場の写真をとり、両者の言い分を載せ。識者(例えば藤原正彦さん)の意見を聞けば社会面トップの記事となる。ネットのニュースと違ったものができる。新聞が生き残れる道である。記事にしないのはもののあわれを知る記者がいなくなったせいかもしれない。