銀座一丁目新聞

茶説

大学の卒論が一冊の本になった

牧念人 悠々

この4月マスコミに入った知人の中川玲奈さんが大学の卒論をもとに一冊の本を自費出版した。題は『陸軍将校教育と戦場経験―陸軍士官学校56期生の戦時と戦後―』である。戦後75年。大学の卒論に陸士56期生を取り上げる自体ユニークであり興味深い。私は驚くほかない。在学中に56期生会の代表である大坪寿光さん(兵科防空)と知り合い、その同期生会『むらさき会』に欠かさず出席した。中川さんは56期の期友となり、戦時中22、23歳の若者たちが戦場で戦い、戦後を生き抜いた生きざまを知った。この人達はどのような教育を受けたのか好奇心が湧いた。それが卒論や本の出版につながった。この期は大東亜戦争中最も戦死が多いのも彼女の書く意欲を倍加させた。陸士56期は昭和17年12月陸士を卒業(航空は18年5月卒業)である。多くのものが最前線で奮戦した。戦没者は1030名を数える(総数2840名・陸士・航空2543名、経理学校124名、軍官学校173名)。その魁となったのは阿部信弘中尉。昭和19年12月ニコパル諸島に来襲した英海軍機動部隊に対し体当たり攻撃をして戦死している。

中川さんははじめに陸士の歴史概要で将校教育を取り上げる。ここで「区隊長制度」「指導生徒制度」「取締生徒制度」などこれまであまり一般的に取り上げられなかった制度まで論述している。この点は大いに注目される。そのなかで「死」について論じている。「戦争の本来の目的は勝つことである。しかし陸軍を担う将校らに与えられた教育目的は死ぬためであった。これは戦争すなわち死であることを指し、戦争の本来の目的をすでに見失ってしまっていたことのあらわれではないだろうか」と指摘する。確かに軍人勅諭には「義は山岳より重く死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ」とあるが教えられたのは圧倒的に敵を殲滅することであった。任務を遂行する責任感であった。死は最後の帰結であった。沖縄戦で自決した牛島満大将(陸士20期)、硫黄島で玉砕した栗林忠道大将(陸士26期)の2人はアメリカの雑誌で第2次大戦の日本の名将と讃えられたことをみてわかる。

56期生の団結の固さを示すのは昭和54年9月30日に建立された高野山慰霊塔「礎」である。この建設募金を行ったが目標額2000万円に対して3700万円も集まったと言う。著者は「凄まじい結束力」と感嘆する。彼らの戦後は1,中小企業の社長、2,大学を出て企業に入り役員や社長になった人びと、3,自衛隊に入隊した人々。陸上幕僚長、航空幕僚長、中部・東北方面総監などになっている。4,その他となっている。

最後の13人の証言集が106ページにわたり載っている。これこそが陸士教育の成果だと思う。「道徳を説く人を見習うな。実行する人を見習へ」という。「大陸打通作戦について」山口叡さん、久堀和夫さん。「フィリッピン方面作戦について」黒瀬純造さん、有川覚治さん、荒木勣さん。ここにはフィリッピンで戦犯になり死刑の判決を受けた伊藤正康さんのことが出てくる。「ああモンテンルパの夜は更けて」の作詞者である。「ビルマ方面作戦について」水足治雄さん。「豪北・ニューギニア方面作戦について」村岡生さん、梅田晴雄さん、三ツ木喜久治さん。「満州、シベリア抑留について」津野正夫さん、石井豊喜さん。石井さんはシベリア抑留中作、業中隊の隊長を任されるが彼の中隊だけは「軍人勅諭」の奉唱を欠かさず行った。またソ連側に言うべきとはいい部下を守った。そのため帰国が遅れ昭和24年9月になった。「内地防空について」松尾裕夫さん、大坪寿光さんの話が出ている。戦場での生と死は髪一つと言うことがよく分かる。

私は大坪寿光さんの紹介で中川さんを知った。この本の最後のページに大坪さんの陸士を卒業する際に読んだ歌が紹介されている。
「若桜 風に散りたる後の世に 語り継げてよ相武魂」。
この本が多くの読者の共感を呼ぶことを期待したい。