亡き友人たちを偲ぶ
柳 路夫
最近同期生と会う機会が殆どない。メールか電話ぐらいである。なにか物足りない。直接会うというのは大切なことなのである。人の表情に最近の暮らし状況や健康状態がわかり雑談するうちにアイデアが浮かんだりする。気心のあった同期生と会うのは大切なことだと知る。それなの親しい同期生が年々なくなってゆく。そんなときに死別の悲しみを癒すために書かれたヘンリー・スコット・ホーランド(イギリスの神学者・1847-1918)の詩が出てくる。
▲『死は 特別なことでは ないのです。私は ただ隅の部屋にそっと移っただけ。
私は私のまま、そしてあなたもあなたのまま。私たちがかってお互いのことを感じていた そのままの関係です』
( Death is nothing at all.
I have only slipped away into the next room.
I am I, and you are you.
Whatever we were to each other
that we still are.))
友人たちは「ただ隅の部屋にそっと移っただけ」か…。それにしては会えないのが残念である。「去りし友南無阿弥陀仏ハコベ燃ゆ」悠々
▲『私のことを これまで通りの親しい名前で呼んでください 私に話しかけてください、いつもの通りの気楽な調子で。 あなたは 声の調子を変えたり、無理して厳粛にふるまったり 悲嘆に暮れたりはしないで下さい』
(Call me by my old familiar name.
Speak to me in the easy way
which you always used.
put no difference in your tone
Wear no forced air of solemnity or sorrow.)
そういえば同期生の名前を呼んだことがない。これからはベランで呼んでみよう。そして「校歌」を合唱しよう。
▲『私たちがちょっとした冗談に 共に楽しく いつも笑っていたように どうぞ笑ってください。 人生を楽しんで、微笑んで、私のことを思って、私のために祈って下さい。
私の名前が 今まで通りのありふれた言葉の様に、皆で私のことを話して下さい。 私の名前が何の苦労もなく、少しの影もなく、あなたの口にのぼりますように』
(Laugh as we always laughed
at the little jokes we enjoyed together,
Play, smile, think of me, pray for me.
Let my name be ever the household word
that it always was
Let it be spoken without affect,
Without the tracs of a shadow on it.)
陸士41期の先輩は事あるごとに「ニコニコニッコリ笑って過ごそう」と教えた。平成17年1月96歳でなくなった。「百歳も間近になりぬ初日の出」の句を残す。
▲『人生の意味は 今と変わることはないのです。
人生はこれまでと同じなのです。 そしてこれからもまったく途切れることもなく続いていくのです。 私が見えなくなったからといって、 私が忘れ去られてしまうなんてことが なぜあるのでしょう』
(Life means all that it ever meant.
It is the same that it ever was.
There is absolutely unbroken continuity.
Why should I be out of mind
because I am out of sight?)
「新型コロナウイルス」は私に生きることを問うた。何度もブログで書いた。『今の鬱陶しい気分を早く取り除きたい。ニュースに対する感度が極めて悪い。日々は日常作業の積み重ねで過ぎてゆく。問題はこの日常作業の中身である。意義があるとすれば「書くこと」「読書」「人と合うこと・会合」であろう。昔はすぐ書けたのだが昨今はなかなか書けない。じれったい。この気持自体すでにコロナに負けている証拠である』(3月9日)
▲『私はあなたを待ち続けます。 どこかでとてもちかいところで、
すぐそこの角を曲がったところにいて、 だから 何も思い煩うことはないのです』
(I am waiting for you
for an interval,
somewhere very near,
Just around the corne
ALL is well )(訳・宮島瑞穂さん)
「ALL IS WELL」.私は迷っている。孤独感から脱しきれない。頭でわかっているつもりだが体言うことを聞かいない。