銀座一丁目新聞

追悼録(

辞世・別れの言葉

柳 路夫

昨今夢に出てくる友達は亡くなったものばかりである。音楽会に行ったり喫茶店で雑談したりしている夢である。友人たちがいずれも余裕を持っているのが羨ましかった。最近『尽年』という熟語があるのを知った。寿命を全うし終わるという意味である。莊子の言葉である。「可以全生、可以尽年」。この「新型ウイルス」がなかなか収まらない今の時代、悶々として無為無策のうちに年月が過ぎ「尽年」しそうな気がする。だが「可以全生」でなくて野たれ死である。「可以尽年」ではなく酔生夢死である。その『莊子』(金谷治訳注・岩波文庫)を紐解くと、大宗師編第六に「死と命があるのはひとつづきのものである。自分の生を善しと認めることは自分の死も善しとしたことになる」として「生と死との分別にとらわれて死を厭うのは正しくない」と教えている。

万葉の歌人・山上憶良は辞世らしき歌を残す。

「おのこやもむなしかるべき万代(よろずよ)に語り継ぐべき名は立てずして」(巻6-978)(士也母 空応有 万代尓 語続可 名者不立之而)(男子たるものは空しく朽ち果てるべきものであろうか。万代にも語り継ぐべき立派な名を立てないで)

山上憶良は百済の人である。660年生まれ。75歳まで生きたと思われる。4歳の時に医者の億仁と一緒に日本に来た。若いときには苦労したようである。大宝2年(701年)42歳の時、遣唐使に選ばれてから運が向いてきた。57歳の時に伯耆の国(鳥取県)、67歳の時に筑前国(福岡県)の長官になった。このときの上官に太宰帥大伴旅人がいた。

万葉集に山上憶良の歌は長歌11首、短歌52首、旋頭歌1首がある。いずれも秀歌である。叙情にかけるがいずれも教養の深さと人間的愛情を感じさせるものが多い。其れを端的に表現したものがこの有名な歌である。

「銀(しろがね)も金(くろがね)も玉も何せむ勝れる宝子に及(し)かめやも(巻5-803)(銀母 金母玉母 奈尓世武尓 麻佐礼留多可良 古尓斯迦米夜母)

この他にも家庭について歌ったものもある。このような歌人は万葉には憶良を除いて他にはいないという。

憶良は筑前から帰京した天平4年(732年)ごろから病に苦しむ。翌年のある日。友人の藤原八束が使いを出して病気見舞いをした。その時詠んだ歌がこの辞世である。時に憶良74歳。かれは「士」として生きようとした。万代に語り継がれる男子であるのを目標としたのである。藤原八束はこの時18歳である。訓戒の意味もあったのであろう。私は尊王攘夷派の僧、釈月性の漢詩を思い出す。「男児志を立てて 郷関を出ず 学若し成る無くんば 死すとも還らず 骨を埋む豈惟墳墓の地のみならんや 人間到る処に青山有り」

昨今、わたしの体にがたが来たのは間違いない。動作が鈍くなった。街を歩けば次々に若者たちに追い抜かれてゆく。気の利いた辞世ができそうにない。

『敗戦忌生き恥晒す戦後かな』悠々 あえて残すとすればこの句か…