田児の浦ゆ うち出でてみれば…
信濃 太郎
万葉は歌う 「田児の浦ゆ うち出でてみれば 真白にそ 不尽の高嶺に 雪は降りける」(巻3-318)(田児之浦従 打出而見者 真白衣 不尽能高嶺尓 雪波零家留)
山部赤人の作。好きな歌の一つである。「うち出でてみれば」の表現が絶妙。若き日この麓で鍛錬に励んだ。昨今は本誌の表紙の写真にしばしば登場させている。見ているだけで心が和む。山部赤人は万葉集のほかは伝記を知るべきものはないという。制作時期の上限は神亀元年(724).制作の下限は天平8年(736)である。万葉集には長歌13首、歌37首がある。ところでこの時代の人は富士山を高い、美しい山という美的感覚からでなく信仰的な対象として尊んでいたようである。「この詩の魅力は作者の崇高なものに対する純一無雑で、ひたむきな信仰にも似た態度にあるといってもよい」と歌人・木俣修はその著「万葉集―時代と作品」(NHKブックス)で評している。
私は小学生の頃家族と正月によくやった「百人一首」のカルタ取りで覚えた。その際の歌は前記の歌とは少し違う。「田子の浦にうち出でて見れば白妙の富士の高嶺に雪は振りつつ」であった。その相違に気がついたのは何時頃か覚えていないが「百人一首」の歌の出典が「新古今和歌集」(冬675)と知った。誰が原歌を改変したかしらいないが意図的なものであろう。最後の「雪は降りけり」を「雪は降りつつ」としたのは改悪である。現実に見えない情景を歌うのは邪道である。「雪は降りけり」に込められた荘厳さ新鮮な感動が消えてしまう。
実は山部赤人は自作の歌で「雪は降りつつ」の表現を使っている。「明日よりは若菜摘まむと標めし野に昨日も今日も雪は降りつつ」(巻8-1427)(従明日者 春菜将採跡 標之野二昨日毛今日母 雪波布利管)。この場合の「雪は降りつつ」は現実の描写である。「百人一首」の表現とは異なる。仮定の話だが「新古今和歌集」の編者はこの歌の存在を知って「田児の浦ゆ…」の最後を変えたのかもしれない。
もっとも木俣修は「春の野に菫採みにと来しわれぞ野をなつかしみ一夜寝にける」(巻8-1424)(春野尓 須美礼採尓等 来師吾曽 野乎奈都可之美 一夜宿二来)の歌とともに「菫を積んだり若菜を摘んだりする実用的な匂いよりも耽美的な感じがする」と歌人らしい指摘をしている。万葉集の歌は味わえば味合うほど味が出てくるであろう。
それにしても小学校唱歌「富士山」が何故か懐かしく思い出されてくる。年をとったということであろう。万葉の歌に惹かれるのも老い故であろう。
1番。「頭を雲の上に出し 四方の山を見下ろして
かみなりさまを下に聞く 富士は日本一の山
2番。青空高くそびえ立ち 体に雪の着物着て
かすみのすそを遠くひく 富士は日本一の山」