2・26事件についての考察
柳 路夫
友人の北野栄三君からこのほど『2・26事件』のエッセーを頂いた。私も2・26事件については書いてきた。しばしは本誌でも取り上げた。その感想を北野君に手紙で送った(2月5日)。その内容は次のようなものであった。『2・26事件将校たち」「永田鉄山」興味深く読みました。2・26事件の資料は読んだつもりでしたが知らないことが書いてあり参考になりました。あなたが指摘した「日本帝国陸軍の末期に近いときに、なぜ青年将校が登場したのか、その背景を解明する余地はまだまだ残っている」は正鵠を得ています。
栗原安秀中尉(41期)と酒井直中尉(44期・広島)と幼馴染であった歌人・斎藤史は2・26事件の後「濁流だ濁流だと叫び流れ行く末は泥土か夜明けか知らぬ」と歌っています。
ときに斉藤史27歳。日本の進む先を『泥土』か『夜明け』と表現している。心ある人びとは日本の行き先を心配したのでしょう。中田鉄山についてはこれまで資料を集めませんでした。これから研究します。久しぶりに刺激を受けました。ありがとうございました「コロナ禍や読み耽るふみ春浅し」悠々』
北野君の2・26事件のエッセーはいう。『2・26事件の青年将校たちは、兵隊の家庭と家族の窮乏を見過ごせずに立ち上がったと何人かが言っている。しかし、その『蹶起』は果たして国民を守る軍をつくれたか。「蹶起」は、その先がどうなるかを見通せなかった。「蹶起」だったのである』
事件関係者は事件2ヶ月後の4月28日から特設軍法会議で裁かれた。7月5日21名に死刑が求刑され、そのうち16名(他に民間人一人・水上源一)に死刑判決がくだされ系が執行された。16名の陸士の期別と出身幼年学校は次の通リである。北野君は幼年学校出身者の多さに視点を向ける。
陸士37期香田清貞大尉(熊本)村中考次元大尉(仙台)
陸士38期安藤輝三大尉(仙台)磯部浅一元一等主計(広島)
陸士39期渋川善助(陸士中退・仙台)
陸士40期竹島継夫中尉(東京)
陸士41期栗原安秀中尉、対馬勝雄中尉(東京)中橋基明中尉(東京)
陸士43期丹生誠忠中尉
陸士44期酒井直中尉(広島)
陸士45期田中勝中尉(熊本)
陸士46期中島莞爾少尉(熊本)安田優少尉、高橋太郎少尉
陸士47期林八郎少尉(東京)
幼年学校出身者は12名である。これに首謀者の西田税(陸士34期。広島)、自決した野中四郎(陸士36期・東京)、河野寿大尉(陸士40期・熊本)を加えると15人となる。北野君は幼年学校出身者が主力となって事件を推進したことをうかがわせる数字だと指摘する。当時幼年学校は仙台、東京、名古屋、大阪、広島、熊本と6校あった。参加者には成績が優秀なものが少なくない。西田は広島で恩賜、渋皮は仙台、陸士予科で恩賜、竹島は東京、陸士予科で恩賜であった。健軍の父大村益次郎が「後日の大用に供する」ために作られた「幼年学舎」(幼年学校)から事件の“主役”たちがうまれた。何故か。なぜ彼らは「後日の大用」を待つことができなかったのか。北野君は明快な答えを出していない。
私は陸士59期生で事件から7年後の昭和18年4月に入校した。2年5月の陸士生活であった。そこからえたものはまず「責任を果たす」こと、人間として「率直淡白であれ」であった。蹶起行動を起こす時、学業の成績は無縁のように私は思う。「人生生きに感じなば功名誰が論ぜん」という気持ちになるのではないか。理外の理である。性格的に分けると「理に強い人」「情に強い人」に分けられるのであろう。
三上卓の「昭和の維新」は歌う。「権門、上に奢れども 国を憂うる誠なし 財閥、富を誇れども 社稷を思う心なし」(2番)更に「功名、何ぞ夢の跡 消えざるものは、ただ誠 人生、意気に感じては 成否を誰があげつらう」(9番)
最後の締めくりに斎藤史の歌をあてる。
「この森に弾痕のある樹あらずや記憶の茂み暗みつつあり」
(WITHIN THIS FOREST
IS THERE NOT A TREETHAT BEARS
THE MARK OF A BULLET ?
IN THICKETS OF MEMORY
UNDERGROTHKEEPS DARKENING)