銀座一丁目新聞

安全地帯(

哀しからずや尾崎放哉の自由律「咳しても一人」

信濃 太郎


見出しの俳句は毎日新聞の坪内稔典の「季語刻々」に載っていた(11月29日)。放哉について小説『海も暮れきる』(講談社文庫)を書いた吉村昭は取材して放哉が村人から嫌われていることを知り自分も付き合いたくない男だ思ったという。それほどの嫌れ者がなぜ「漂白の詩人」と言われるのか。詩人の心のうちは凡人には伺いしれない。放哉は一高、東大を出て一流企業に勤めながら酒に溺れ一時は満州までさまよう。その間、妻と別れ、親類とも付き合わず人には頼み事をしたりお金の無心をしたりするばかりであった。大正15年4月7日小豆島でなくなった。享年41歳であった。

荻原井泉水が明治44年4月の創設した「層雲」の主要なメンバーであった。井泉水は大正3年「俳句は印象詩」と称して季題をなくし表現も自由として5・75の定型をも廃棄した。自由律を高らかに宣言した。井泉水は尾崎の一高・東大の1年先輩でその才能を知っているだけに物心両面で尾崎の面倒を見た。
吉村の作品は尾崎の最晩年の瀬戸内海の小豆島の西光寺南郷庵で過ごした8年間を描いたもの(大正14年6月から大正15年4月まで)。西光寺の住職は宥玄。南郷庵は3つの部屋に仕切られる。奥の6畳間は仏間で弘法大師が祀られ、次の間は8畳間、ついで2畳間と1畳間ほどの板の間の台所であった。これが放哉の終の棲家である。入庵に際し
「西瓜の青さごろごろと見て庵に入る」と記す。
庵の前の庭を見て自然に浮かんでいきた詩である。
「之でもう外に動かないでも死なれる」
酒癖が悪く、その上人に嫌われる肺病を患っている身であれば妻にさられても仕方がない。妻には島に落ち着いた様子を知らせたが返事がない。神戸で会社の寮母をやっている妻がいつかは迎えに来てくれると思いこんでもいた。

「すばらしい乳房だ蚊が居る」
「髪の美しさもとあまして居る」

南郷庵に住みついてから裏山に何度か登って海を眺めている。海が好きであった。

「山に登れば淋しい村がみんな見える」

ときに俳友が訪ねてくる。話は俳句に関することが多い。友人が自分を俳人として尊敬している様子に気分を良くする。

「二人ではじめてあって好きになってくる」

村人たちは粗食に甘んじ女気もない放哉の生き方が理解できなくて、村の老婆が酔ってその生き方を問う。

「なにがたのしみで生きているのかと問はれて居る」

大正15年2月21日朝から吹雪であった。粉雪が雨戸の隙間から吹き込み障子に音を立てて当たる。翌朝ふらつく足取りで雨戸を開くと雪はやみ。明るい陽光が広がっていた。

「小さい島に住み島の雪」
「どっさり春の終わりの雪ふり」(3月20日)

辞世の句は
「春の山後ろから煙がでだした」
別れた妻が真っ先で南郷庵まで駆けつけたのは放哉に撮って嬉しいことであったであろう。
昭和3年の命日、南郷庵の庭先に放哉の句碑が建てられた。井泉水の筆になる。
「いれものがない両手でうける」