小柴昌俊さんを偲ぶ
柳 路夫
ノーベル物理学賞を受賞した小柴 昌俊さんがなくなった。(11月12日・享年94歳)。生前一度、同台経済懇話会で「ニュートリノの話」を2時間ほど聞いた(2005年9月13日)。温容な親分肌な人とお見受けした。テレビで拝見すると部下の研究者から慕われていた様子がよくわかった。経歴を見ると、学位はDoctor of
Philosophy(ロチェスター大学・1955年)、理学博士(東京大学・1967年)。東京大学特別栄誉教授・名誉教授、東海大学特別栄誉教授、日本学術会議栄誉会員、日本学士院会員、文化功労者、文化勲章、シカゴ大学研究員、東京大学原子核研究所助教授、東京大学理学部教授、東京大学高エネルギー物理学実験施設長、東海大学理学部教授など多彩である。
一度は軍人を志望したのは知っていたが同期生の野俣明君と横須賀中学の同級生であるのを最近知ってびっくりした。小柴さんの父親小柴俊男さんは陸士28期(同期生651名・大正5年5月卒業)で戦前は歩兵236連隊長(大佐)であった。陸士28期の大半は大東亜戦争の末期連隊長で戦史に名を残した軍人が少なくない。一木清直歩兵28連隊長は昭和17年8月、米軍がガダルカナル島に侵攻するや飛行場奪還の命を受けた1000名足らずの兵力で米海兵師団を攻撃した玉砕した。後任の連隊長は同期の松田教寛大佐であった。彼は寄せ集めの部隊からなる後衛の総指揮官を命ぜられた。生還ののぞみはゼロに近かかったか奇跡的にガ島からの撤収作戦に成功した。また同期生・棚橋真作大佐は戦後自決している。112連隊長としてビルマの第2次アキャブ作戦で健闘したがこの時、捕虜になっていた英軍の旅団長が英軍の砲撃で死亡する事件が起きた。戦後このことが問題になった。棚橋大佐は故郷の神社で割腹自決を遂げた(昭和21年2月13日)。このような同期生を持つ父に育てられた昌俊さんも軍人の道を進むはずであった。横須賀中学校1年生の時、陸軍幼年学校を受けるはずであったが小児麻痺にかかり断念した。病床にあった小柴さんを物理学と出会わせたのは、当時の担任は金子英夫先生であった。金子先生はアインシュタインらが書いた『物理学はいかに創られたか』という本を小柴さんに贈った。金子先生はよく小柴さんの面倒を見たという。野俣君の話によると中学校のクラス会は外国留学や外国旅行が多い彼のために日本にいるときを選んで開いたそうだ。
その後小柴さんは一高・東大へ進学した。戦後父親が軍人であったため公職追放にかかり軍人恩給も停止になり生活は苦しかった。小柴さんはアルバイトをしながら勉学に勤しんだ。
病が彼の運命を変えたと言えるが何の道に進もうが小柴さんは良い仕事をされたと思う。彼の名言の一つが「今はできないけど、いつかは実らせたいと思う卵をいつも3つか4つ抱いて、夢をもって生きるといい」である。いい言葉だ。クラーク博士も「少年よ大志を抱け」といった。要は実行するかしないかだけである。心からご冥福をお祈りする。