同期生・植竹与志雄君を偲ぶ
柳 路夫
同期生植竹与志雄君がなくなった(9月7日・享年95歳)。東京在住の同期生は4月に多摩森林科学園(東京都八王子市廿里町1833-81)の桜見物をした。世話役は植竹誉志雄君であった。今は花見をやっていないがみんなが元気なころは4、50人も集まった。その都度私は本誌で感想を書いた。それをたどりながら植竹君を偲びたい。
雨の日、多摩森林科学園に櫻見物にでかける(平成12年4月)。ここの広さは日比谷公園の約3・5倍の57ヘクタールもあり、標高は183メートルから287メートル。5月下旬までサクラを見ることができる。サクラの木は6000本、品種は200を数える。あつまったのは35人。 面白い名の品種が少なくない。飴玉、雨宿、帆立など…太白(たいはく)は一時絶滅したのを櫻愛好家のイギリス人の庭園に咲いていたのを苗つぎして再生させたサトサクラである。白妙は見ごろで咲き誇っていた。雨にぬれて一段と花の色が鮮やかであった。 さくらを見終えて近くの茶屋に繰り込む。酔うほどに歌が出た。歩兵の歌、航空百日祭の歌、砲兵の歌…戦車兵の歌…。
平成19年4月7日の参加者は18名(女性1人)。昨年は26名(女性4名)であったのに今年は8名も参加者が少ない。園内に昭和天皇をはじめ皇族が来園の際休まれた部屋が保存されている。一時その建物が取り壊しになりそうになったのを秋山智英君の奔走でとりやめになった。その部屋には昭和天皇などの写真があった。いまの陛下が皇太子の時代の昭和22年4月4日、第1回愛林日植樹祭がこの地で行われ、ヒノキを植樹されておられる。
園長の案内で夫婦坂をみんな思いのままにのぼる。紅一点の植竹与志雄君夫人京子さんと歩く。寒かった昨年に比べて今年は「ソメイヨシノ」が満開。話はおのずと俳句になる。京子さんの「男恋ふ迫り出る花一枝」の句がなかなか出てこなくてもたもたしていると、彼女は「山桜百歩のぼればわれ消えむ」の句をあげる。10年程前になくなった長男を偲んだ作品。句集「歩行」によればこの句は平成11年の作である。独立した3人の子供に7人のお孫さんがいるという。純白の「白妙」に会う。亡くなった橋本閑朗君を思い出す。彼が死んだ年の観桜会は雨であった。いつのまにか田中長君と二人になる。昨年秋、出した陸士予科23中隊1区隊史「留魂録」での編集で苦労した仲である。よしなしごとをしゃべりながら二次会場に向う。二人は入り口で櫻の絵ハガキ(10枚・500円)をそれぞれ買う。田村庄次君が10月10日、埼玉で開かれる全国大会でコーラスグループ「GO-Qブラザーズ」が「千の風になって」を歌うという。いま特訓を重ねているとか。年をとっても難曲に挑む姿勢がいい。
平成20年4月11日の参加者16人(夫人一人)であった。今年は平日(金曜日)とあって桜見物客はすくなく、列をなすようなことはなくあるきやすかった。例年の如く入口で桜の絵ハガキを10枚、500円で買う。「イチハラトラノオ」「ケンロクエンキクザクラ」など知らない桜の名前があった。今年はソメイヨシノが目立った。
宴会場は高尾山口の栄茶屋。昨年から椅子になった。ウーロン茶は私と秋山智英君、食事のそばを早く頼んだのもこの二人であった。80歳を過ぎてもよく飲むのには感心する。誰が「開がいないのがさびしいな」(平成20年の2月、死去)と独り言をいう。そういえば開君は酒をこよなく愛した。西村博君が開君、世話役の植竹与志夫君、自分と3人の奥さんが実践女子大で同級生であったと話をするから隣にいた鈴木洋一君と憲法、年金、チベット問題など雑談をかわすうち私は塩田純の「日本憲法の誕生」を、鈴木君は外国からネットで送られてきた「チベット騒動の虐殺遺体の写真」を送る約束をそれぞれする。12日に本を送ると、彼からメールで「チベット大虐殺被害者遺体写真集」が送られてきた。写真は20枚。銃の弾痕が残るもの、生々しい血にまみれたもの、思わず目をそむけたくなるものばかりであった。何故か、その写真は数日後画面から消えてしまった。世界各地の聖火リレーで中国のチベット騒動に対する抗議運動が起きるのがよくわかった。ネットで新聞やテレビでは掲載できない、このような残酷な虐殺遺体の写真を世界中に流されては中国がいくら弁解しても無駄な気がする。ネットの力は世界世論をあっという間に起こす。毎年、高尾の桜は何らかの知的刺激を私に与えてくれるのは嬉しい。『桜を見る会』の世話人として活躍してくれた植竹君のご冥福を心からお祈りする。