銀座一丁目新聞

安全地帯(

詩歌の心よきかな

信濃 太郎

『老いてなほ艶と呼ぶべきものありや 花は始めも終わりもよろし』(斎藤史)

(I WONDER ―IS THERE
SOMETHING CALLED AMOROUSNESS
EVEN IN OLD AGE?
CERRY BLOSSOMS ARE FINE AT
BEGINNINGS—AT ENDINGS TOO.)

短歌は心に響く。男でも年老いてもなお「艶がある」と言われたい。私の花は桜だ。散り際が難しい。

広瀬淡窓は作詩を重んじた。「詩文の道において、文は意を述ぶることを司り、詩は情を述ぶることをつかさどる。故に無情の人は詩を造ること能わず」といっている。更に詩を好まざる人は酷薄なりといい、詩を作らない人は偏僻(考えの偏りねじけていること)なり。野鄙(非文化的である)なりとまでいっている。

そこで私の場合を振り返ってみた。9月17日のブログには短歌と万葉集の歌1首、詩を紹介している。「つつがなき幼馴染と会えた日の午後の露草すなおにしぼむ」(鳥海昭子)
「月草に 衣ぞ染むる 君がため
斑の衣 摺らむと思いひて」(巻7-1255)
(月草尓 衣曽染流 君之為 彩色衣 将摺跡念而)
意味は「露草で衣を摺り染めにしている。あなたのために斑に染めた美しい衣を作ろうと思って」である。
室生犀星の「月草」
「秋は静かに手を上げ
秋は静かに歩み寄る
可憐なる月見の藍をうちわけ
冷たきものを降り注ぐ
われは月見草に座りて
かなたの白き君を見る」

9月24日のブログには「武漢から世界めぐりて秋の風」(悠々)と歌い、さらに25日には「秋深い目処なきコロナに立ちつくすく」(悠々)と詠む。

私は偏僻でもないし野鄙でもないわけだ。もともと武人は詩歌を楽しむし作ったりする。

天喜2年(1054)蝦夷の豪族安倍頼時、貞任親子が背いたので陸奥守兼鎮守府将軍源頼義が陸奥ヘ下った。安倍親子は衣川の柵に立てこもり抗戦した。3年後の天喜5年頼時を打ったが貞任はなおも抗戦を続けた。ことの時、攻撃する頼義の長子義家と柵を捨てて逃げようとする貞任の間で歌がかわされている。義家が「衣のたて(館)はほころびにけり」と詠んだ所貞任は「年を経し糸の乱れの苦しさに」と上の句をつけた。この振る舞いに八幡太郎と言われ剛弓を持ってなる義家はつかえていた矢を放し見逃したという貞任が討ち死にするのは康平5年(1062)ことであった。

「俳句は太刀ではなく短刀」といったのは横山白虹さんである。今後ともこの短刀で世相を切っていきたい。