若山牧水を偲ぶ
柳 路夫
このところ若山牧水の『幾山河越え去り行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく』のうたが口にである。どこかで、心のなかで、なんとなく人生の余白がなくなるのを感じているからではないかと思う。「新型コロナウイルス」の蔓延も関係しているであろう。外出もできなければ親しい友人とも会えない今日このごろである。
牧水は医師の息子で中学生の頃から短歌と俳句を始めている。早稲田の同級生には北原白秋や中林疎水、土岐善麿、安成貞雄、佐藤緑葉もいる。 おたがに切磋琢磨したのであろう。
ともかく歌に慰められる。心が安らぐ。
手元にある『淮陰生・完本一月一話―読書こぼればなし―』(岩波書店)によれば、案外和歌は中国伝来のものでなかろうかと言っている。『論語』顔淵第十二というのを読むと、こんな一節がある。「司馬牛が憂えて曰く、人みな兄弟あれど、われひとり亡し」(司馬牛憂曰、人皆有兄弟、我独亡)と。なるほど和歌の原型かもしれない。淮陰生歌が好きだと見えて『愛誦歌あれこれ』を5回も一冊の本の中に収めている。取り上げた歌はそれぞれに興味深い。
「人みなのいのち亡ばば亡ぶべしおのがいのちにつつがあらすな」(佐佐木茂索)
「今まではさまざまのことをして見たが、死んでみるのがはじめて」(日本画家・淡島椿岳の辞世)
「心なき身にもしたさは知られけり、高野で行の秋の暮」(南方熊楠)
作家・渡辺淳一は中学時代歌人であった国語の先生が藤村、啄木、牧水、茂吉たちの歌をひたすら聞かせ「いいね、いいね」というだけであった。逐語的にごくの説明や解説などしなかったという。
若山牧水は昭和3年9月17日なくなった。享年44歳であった。当時の新聞は次のように伝えた(朝日新聞)。
【沼津電話】千本浜の閑居に病んだ歌人若山繁氏(44)は十七日午前二時頃から全く危篤に陷り同六時ごろ食事代わりの酒約百グラムを飲み盃を置く間もなく昏睡に陷り一言の遺言もなく門下生の捧げる末期の水ならぬ酒を口びるにして同七時五十八分肝臓硬変症に心臓麻痺を併発して永眠した。
昭和3年という年は1月に大相撲のラジオ放送が開始された。2月に共産党の「赤旗」が創刊、2月22日には初めての普通選挙(第16回総選挙)が行われた。3月に高柳健次郎博士が世界で初めてのブラウン管を使ったテレビ実験に成功する。8月第9回オリンッピク・アムスルダムダム大会で織田幹雄の三段跳び、鶴田義行の2百メートル平泳ぎでそれぞれ優勝する。流行としてはスカートが膝の上まで短くなった。こんな時代であったが酒をこよなく愛した牧水は「白玉の葉にしみとほる秋の夜の酒はしずかに飲むべかりけり」と毎日一升酒を欠かさなかったという。
「幾山河今日も旅せり牧水忌」悠々