氾濫した最上川に芭蕉を思う
信濃 太郎
「五月雨やあつめてはやし最上川」芭蕉
芭蕉が『おくのほそ道』でこう詠んで331年たつ。停滞する梅雨前線の影響で記録的な大雨を観測した山形県では最上川が5ヶ所で氾濫、200余棟が浸水するなど被害を被った。サクランボもやられたとテレビは伝えていた。熊本の球磨川と同じく急流と言われる最上川が氾濫してもおかしくない。
『おくのほそ道』は伝える。「最上川はみちのくより出で、山形を水上とす。ごてん・はやぶさなど云う(碁点・隼・大石田の上流)、恐ろしき難所有。板敷山(最上郡戸沢村と鶴岡市の境に聳える山)の北を流て、果ては酒田の海に入る。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。是に稲つみたるをや、いな船といふならし。白糸の滝は、青葉の隙(ひま)隙に落て、仙人堂岸に臨んで立。水みなぎって、船あやうし」(なお最上川の源流は吾妻山)。
地球温暖化による異常気象で今後、日本列島は川の氾濫・浸水・土砂崩れなど災害に見舞われるのは必定である。ひたすら「減災」に務めるほかない。
「おくのほそ道」の冒頭は有名である。「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらえてむかふる物は、日日旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せる有り。予もいずれの年よりか、片雲にさそはれて、漂白の思ひやまず…」
芭蕉は無情流転の世界に遊び、俳句に精進した。「古より風雅に情ある人々は、後ろに笈をかけ、わらじに足を痛め、破笠に霜露をいとふて、己が心を攻めて、物の実を知る事を喜べり」とも述べている。
考えてみれば94歳の私も敗戦で軍人の道を絶たれて世の中の激流の中に放り出された。先輩の励ましの言葉は「生き恥をさらしても国のために尽くせ」という言葉であった。食うためにジャーナリズムの道を選び、幾多の事件にもまれながら「寝食を忘れて家庭を顧みず」働いた。
「敗戦忌生き恥晒し75年」と詠むのはあまりにも優雅さがたりない。戦争中訓練に明け暮れた神奈川県座間の陸軍士官学校(相武台という)は今や米軍が駐留している。もちろん自衛隊もいるが昔の面影はまったくない。芭蕉を今にあらしめばやはり「夏草や兵どもの夢のあと」と詠むであろう。