銀座一丁目新聞

花ある風景(

続・諸賢人

ごんべい

「武士道と云うは死ぬ事と見つけたり」。江戸中期佐賀鍋島藩の山本常朝が武士としての心得を口述したもので、余りにも有名である。明治維新前後には幾多の志士・賢人を輩出したものの、新政府に於ける薩長藩の陰に隠れて、世に喧伝される機会を逸したかに見える、佐賀鍋島藩では在った。前回は諸賢人と題し、「義祭同盟」と枝吉兄弟・従兄弟の島義勇を紹介した。今回は藩主鍋島直正他六名を取り上げて、「佐賀12賢人歴史散策御楽しみ張」を閉じたいと思う。

 佐賀藩第十代藩主鍋島直正 は、文化11年(1814)先代藩主斎直の17男として江戸に生まれ、後に別名を閑叟と号した。17才で藩主に襲封されたが当時は、災害その他で藩財政は破綻状況に在ったと云う。家督を継ぎ意気揚々とお国入りをする際、江戸の商人たちから品川宿で足止めを食らい、初めて藩のひっ迫した財政事情を、知ることになった。その為佐賀城二の丸が全焼した際、父の反対を押して城の再建を実行すると、役人を大幅に削減して歳出を減らし、借金の8割放棄・割賦等を断行して歳出を減らしたと云う。藩は、福岡藩と交代で長崎港の警備に当たった関係で、直正自身も長崎を尋ねる機会が多く有った。開明的人柄の直正は、オランダ人宣教師フルベッキと親交を結び、長崎に設置した「致遠館」に蘭学寮を設けて彼を英語教師として招聘し、有為の若者を学ばせた。曩には弘道館を充実させて人材の育成に当たるなど、教育改革・農村改革には特に意を注いだ。軍事技術の導入にも熱心で、高島秋帆の西洋砲術に関心深く、アームストロング砲の製造をもして居る。この為、嘉永3年(1850)には日本初の「築地反射炉」を造った。韮山の反射炉は筆者にとって見学済みで、勿論日本初の物と思い込んでいたのだが、それ以前に佐賀に在ったとは、驚きものだ。直正が佐賀藩邸に入った当時は、後のアヘン戦争を前にして清国の情勢は、大いに揺れ動いていたであろう。「致遠館の蘭学寮」創設など教育面での配慮も、長崎での異国船を通じ、西欧の文明文化に後れを取っている事に、危機感を持った為と思われる。人材の育成には特に熱心で、当時重罪と言われた脱藩を、江藤新平・大隈重信・副島種臣 等が図った時、謹慎処分で済ませてもいる。一方尊皇か佐幕かで世情が揺れた時、軍事力強大な佐賀藩の去就が気になる幕府であったが、面会に来た幕府の使者には「痔でござってな」と断って真意を見せない大胆さを有して居たと言われる。西端の地に在って、多くの人材を輩出した佐賀藩の教育に関心を寄せた岩倉具視は、二人の子供を佐賀に留学させたと云い、英語学校「致遠館」の集合写真には二人が映っている。

 フルベッキについては初めて聞く名だったが、オランダに生まれた。22才で米国に渡った時、コレラに罹って重症になるが、奇跡的に完治すると神学校に学んで宣教師を志した。日本に宣教する機会を得て、29才(1859)の時上海経由で来日した。長崎で教鞭を執っていたが、政府から江戸に呼ばれる。嘗ての教え子である大隈重信に日本の近代化についての進言を行い、縁あって岩倉具視の欧米視察団に結び着いたと言われる。ともあれ明治31年68才で亡くなるまで日本の為に大いに貢献し、東京の青山墓地に眠っている。

 大木喬任 は天保3年(1832)の生まれ、11才の時父を失い母の手一つでそだてられ、弘道館に学ぶ。1850年副島種臣等と枝吉神陽の義祭同盟結成に参加。1860年弘道館から選ばれて江戸遊学の途に出る。明治元年(1868)新政府が樹立されると、大隈・副島・江藤等と共に出仕し東京遷都を建白して東京府知事になった。明治4年には初代文部卿となり、学校令・教育勅語・などの教育体制整備に尽力し、全国に5万以上の小学校を置くなど今日に続く学制の基礎を築いて居る。司法卿の時には神風連の乱・萩の乱の事後処理に当たった他、大久保利通の側近として活躍し、民部大輔の時には戸籍法の制定を行う。この他、元老院議長・参議・枢密顧問官等の要職を歴任して伯爵に任じられ、67才で亡くなった。

佐賀城歴史館のボランテイアスタッフ 小寺豊二さんに依れば、大木喬任の人となりは「静かなる内に秘めた反骨精神」を有し、我が道を行く性格で頭脳は大隈・副島らも一目置く存在であったと言う。一方、木綿以外の服が禁じられた中に在って、一人絹の着物を着用し・専用座布団を持参したりしたとか。目立ちたがり屋の性格と、強い信念を持つ魅力ある存在だった、と評して居る。父親譲りの酒豪で、水のように飲んだとも言われるが、大量の読書家でもあった。東京府知事の時には荒れた武家屋敷を利用した、桑園・茶畑に関する「桑茶規則」を作ったが、病害等の影響で失敗した。人と違う処は、早くにその失敗に気付き、府の発展に情熱を注いだと云われ、失敗から学ぶ大胆さは一目置かれたと云う。寡黙な性格で怒らせると怖い存在でもあったらしいが、「弘道館」仲間との友情は特に大事にしたようで、獄死した中野方藏の亡骸を引き取って弔い,墓を造ってその冥福を密かに祈って居る。又若き江藤新平が脱藩を決意した際には資金を工面し、捕縛されたときには死刑にならぬように奔走している。友情を大事にした証として、江藤に宛てた達筆な書簡が、県立博物館に残されてある由。

 江藤新平 は天保5年(1834)に生まれ、明治7年40 才で亡くなるまで正に東奔西走した。父胤光は下級武士であったが、故有って蟄居中の為彼の弘道館は中等迄で、専ら教授である枝吉神陽の私塾に学んだ。大木とは略同年で無二の親友となり、共に頭脳明晰と謳われた。23才の時「図海策」を書き、開国論を唱える。29才の時に脱藩して京都入りし、後に其の見聞記を纏めるも、謹慎を命ぜられている。「義祭同盟」では大木・大隈・副島・らと手を携え、戊辰戦争にも共に参加し、維新の志士として面目躍如なるものが在った。明治の新政府が誕生するや、早々に江戸鎮台長官の下で、6人の判事の中の会計局判事に任命され、会計・財政・都市問題などを担当した。大木らと唱えた東京遷都論が実を結び、明治天皇が行幸して江戸は東京と改称される。翌明治3年、佐賀に帰郷して準家老として藩政の改革を行うが、再び中央に呼ばれて太政官中弁の任をこなす事になる。制度取調専務として国家機構の整備に従事の際には、岩倉具視に対し30 項目の答申書を提出した。とくに近代的な集権国家・四民平等を説いて文部大輔・司法卿の要衝を努め上げた。司法卿の時には山縣有朋が関わったとされる「山城屋事件」・井上馨がかかわったとされる「尾去沢銅山事件」らを厳しく追及、一時的には両者を辞職に追い込んだりもした。明治6年参議となったが、征韓論に敗れて参議を辞任する。佐賀に帰郷した彼は島義勇と「佐賀の役」を主導、約一か月の戦は明治の内乱として掃討され、江藤は捕らえられて刑死する事になった。
 佐賀文化財保存佐賀県協議会の古賀久人さんは、「江藤の正しいと思ったことを貫き通す美徳が、政治家としては仇となり、意に沿わぬ結果を迎えてしまった。信念に散った、不器用な政治家」と言うより他は無いと言って居る。彼は司法省時代の部下の判決で、既に禁止されていた斬首刑に処せられたと言われる。皮肉且つ悲劇的な最後だったが、それ以上に彼にとっては、あまりにも短い40年の生涯が、惜しまれよう。盟友大木喬任が華々しい人生であったのと比較して、運・不運と評するのが妥当か否か、考えさせられる。明治22年賊名が解かれ、大正5年には正四位が贈られて居るのは、せめてもの慰みであろうか。  

相良知安 は天保7年(1836)年、藩医相良柳庵の三男として生まれ、当然のように弘道館に学び、又当然のように致遠館の蘭学寮に入って医学の道を歩み始めた。佐倉順天堂では佐藤泰然の、長崎ではオランダ医師ボードインより医学を学ぶ。新政府の医学校取調御用掛として、大勢がイギリス医学に傾いていたものを、ドイツ医学の採用を進言して、これを決定させた。その過程で、西郷隆盛・山内容堂の体面をつぶした事で薩摩・土佐閥の恨みを買い、時の弾正台(大宝令の制で違法行為を取り締まる中央官庁)から、部下の不正疑惑に連座して収監された。だが石黒忠悳・江藤新平等の献策が有って出獄し復職する。直系の子孫が評しているが「信じるものを、守り通した信念の人」だった由で、可成りの頑固者だった様だ。明治6年文部省医務局長兼築造局長となり、「医制76ケ条」の草稿を書いたが、仕事に恵まれず明治18 年50才で官職から身を引いた。相良は佐賀に正妻と子供を置いた儘上京し、死ぬまでの37年間を權妻と貧乏長屋に暮らした由で、生活は困窮していた。その為、後年叙勲の際には、着る礼服を調達する事が出来ずに、親友の石黒忠悳に代理を頼む始末だったらしい。71才で亡くなった時、天皇陛下からの祭粢料が使者に依って届けられたが、長屋の住人達は、それほどの人だったのかと、驚いたエピソードも伝わっている。前述の江藤新平とは齢が二つ違いで、竹馬の友であった。頑固な性格が似て、役人として司法・医学の面で功績を挙げながら、離職せざるを得ない事情があった事は、本人としても痛恨であったろう。

 大隈重信 は述べてきた諸賢人の中で最も若い。天保9年(1838)の生まれだが、武士・政治家・教育者として正にマルチ的に生き、しかも成功者だったと言って良かろう。大隈家は石火矢頭人(砲術長)を努める家系で、上士の家柄だった。7才で弘道館に学び優秀な成績だったが、鍋島家の武士道の倫理書「葉隠」に裏打ちされた朱子学など、漢学を中心とした閉鎖的教育には反発した。その為南北寮の対立時には首謀者と目され、18才の時に弘道館を離れた。その後蘭学寮へ入学して洋学に励む傍ら、枝吉神陽の「義祭同盟」で国学と尊皇思想を学ぶ。副島種臣と脱藩して京都に向かい、志士活動も行っている。時代が変わり、新政府で外国事務局判事に任ぜられると、キリスト教徒の処分問題で、イギリス公使のパークスと激しい舌戦を繰り広げ、明治政府にこの人在りと認められた。其の後、大蔵卿・外務大臣・農商務大臣等を歴任、グレゴリオ暦の導入・鉄道建設・貨幣制度の整備等、今日に残る功績を果たした。2度の内閣を率いた政治家として非凡な業績を残した。更に大正9年(1920)には、1882年に誕生させた東京専門学校が、大学令に基づく大学として認可され、自らが初代総長としての早稲田大学が発足した。時を同じくして、福沢諭吉の慶応大学も発足している。
 元大隈記念館館長の古賀雄三氏に依れば、彼は常に「民衆と共にあり」の信念を持って日本並びに国民の為にやっているのだから、周囲も必ず理解して呉れているとの精神でやって来た。結果的には失敗も在ったがその不器用さが却って大衆政治家としての取り柄でもあったと云う。大正11年に死去した際には、日比谷での国民葬に150万もの人が見送ったと言われる。
大隈は、12才の時父を亡くしたが母の愛情厚く、2階の勉強部屋を増改築している。その時部屋を明るくするための窓を大きく設けたが、気の散らないようにと外が見えない高さに設計し、勉強机の前には梁の出っ張りを設けて居眠りすると額がぶつかるようにしたとか。ともあれ母親の期待には十分以上に応えて居る。余計なことだが私の父は生前、大隈重信が存命中の生徒であったことを自慢し、弟二人も同校を出ている。その為我が家ではアンチ慶応で、早慶戦では「早稲田…」の応援歌が流れていたものだ。

 成富兵庫茂安 は永禄3年(1560)、当時龍造寺氏家臣の成富信種の次男として生まれた。11才で主君龍造寺隆信の小姓として仕え、17才の時には初陣を果たして以来、数々の武功を建てた。その知略は多くの逸話を残し、「葉隠」にもエピソードが残されている由。21才で筑後生駒城を攻めた際には十の武功を挙げて、十右衛門賢種に改名したと云う。30才の時には天草騒動の平定に加勢し、加藤清正と会い知遇を得ていた。関ヶ原合戦後、清正から「一万石」の誘いが在ったが、「二君に仕えず」で主君への忠義を貫く典型的な武将であった。関ヶ原の合戦が終わり、大阪冬の陣に続く夏の陣も決着して1615年、戦国の世が終わる。茂安は藩の禄高を上げるため幾多の水利施設の整備に奔走、余生を懸けることになった。水害の防止・新田開発・筑後川の堤防工事・灌漑事業・上水道の整備等々。今尚灌漑用流水の流れが見られる背振り山の「蛤水道」。彼の名前が残る北茂安町と三根町に亘る筑後川の堤防工事「千栗の土居」。佐賀城下への生活農業用水として嘉瀬川に設けられた「石井樋」等は代表的なものだ。今や治水の神様と敬われ感謝の意を伝える為、5年に一度「兵庫まつり」が開かれると云う。
さが水ものがたり館々長 金子信三さんは、「水利の神様として有名な成富兵庫茂安だが、武人としても多くの武功を立てた。何事にも一所懸命な武人だった」と評している。56才以降の彼は75才迄、民の為に、「いい仕事」を残したグランドデザイナーだったと言えよう。
 彼の18才頃までの素行は相当な乱暴者で、博打に嵌まって家財を相当すり減らしたと云う。親族の間では彼の殺害迄考えたらしいが、父の執り成しで命ながらえ、すっかり人が変わった。藩主鍋島勝茂から、武士として立派に育てるようにと、四男の直弘を預けられた程の武将であり、それ以上に人格者でも在ったことが窺われる。彼が亡くなった時には7人もの家臣が、殉死したと伝えられ、白石神社には水の神として祀られて在る由。

高遊外 売茶翁 は延寶3年(1675)、佐賀蓮池支藩々医柴山杢之進常名の三男として生まれた。12才で龍津寺に出家して月海と名のる。13才の時修行不足を恥じて江戸・仙台・京都等各地で研鑽に励む。隠元禅師が当時京都宇治に開いた黄檗山満福寺で修行、中国伝来の文化に触れ視野を拡げて龍津寺に帰った。22才の時痢病を患って発奮、江戸・京都を経て仙台満寿寺の月耕禅師の下で修行に励む一方、各地で苦行に当たって居る。龍津寺に戻り化霖禅師に仕えたが、57才の時師が亡くなると、龍津寺を法弟に譲って上洛する。以前に長崎で、煎茶の知識を得て居たが61才の時、京の東山に喫茶店紛いの通仙亭を開いた。彼の人柄に惹かれて来る多くの文人と語らい乍ら、89才の寿命を全うしたと言われる。あの伊藤若冲も翁に心酔した一人で、唯一翁の座像を描き、彼から貰った「丹青活手の妙、神に通ず」(彩色の素晴らしさは正に神業であるの意)の一行書を印にして絵に捺していたと云う。 
NPO法人高遊外売茶翁顕彰会代表の川本喜美子さんは、「翁は煎茶道の祖と言われますが、本人が名を残すことにこだわらず、悠々と生きられる筈の佐賀を離れ、僧侶の位も捨て、お布施も取らず当時の文化の中心である京都でお茶を振る舞い、自分の信条を説いて回りました。厳しい身分制度の時代に決して権力・大勢に阿ることなく、又媚びることも無かった生き様は、今の私たちが忘れてしまった事を教えてくれて居ます。まさに一人で京都文化に革命を起こしたような人物だと思います。京都文化の中心に静かに座っていたのが売茶翁だ」と話して居る。 
 エピソードにも事欠かず、通仙亭には「茶銭は黄金百鎰より半文銭までくれしだい。ただにて飲むも勝手なり。ただよりほかは負け申さず」の札を掲げていた由。死期を感じた時、売茶業を廃し、自分の茶道具が売買されるのを嫌って全部焼却したと伝えられる。尚、高は姓・遊外が名で、売茶翁は綽名だった由である。

Sagacityの意に沿う12賢人の話だったが、何れも単なる賢人と言うより「毀誉褒貶を顧みずに、吾が信念の道を歩いた人」との印象が強く、貴重な感銘を覚えた。 以上