銀座一丁目新聞

安全地帯(

「桜楓の百人」出版24年後の感慨

信濃 太郎

毎日新聞社会部で一緒に仕事をした堤哲君が一文を毎日新聞の「毎友会」に寄せた。知人に誘われて東京中央区日本橋蛎殻町1丁目にある人形町「今半」で食事をした。その際、本誌の題字を書いた「雨星」と署名した女将の書が2階の部屋にも掲げられてあるのに気づいた、ここで初めて今半の社長高岡慎一郎さんと副社長高岡哲郎さんの母親が高岡節子さんと知った経緯が綴られている。更に「SS会」ができ、そこから「桜楓の百人―日本女子大物語―」(舵社・1996年10月10日第1冊発行)が生まれたと書いている。

実はこの話を堤君からのメールで知って次のように返事をした。
『私が九州から帰ってきてスポニチの社長になった時、有楽町の「今半」で、サンデー毎日にいた北野栄三君、岩見隆夫君(2014年没、78歳)、山崎れいみさんら5、6人が集まって「歓迎会」を開いてくれた。今半の女将、高岡節子さんが山崎さんと日本女子大の同級生であったので女将さんもその会に加わった。僕の名前が節男なので今後、月に一度「SS会」を開こうということになった。ここで様々な企画が生まれた。私がスポニチをやめるまで続いた。ときには自宅まで押し掛けた。…彼女が亡くなった時、れいみさんと私が出入りの商売人・著名人を差し置いてそれぞれ弔辞を述べたのも今や懐かしい思い出である』

この本は社会で活躍する女性物語である。当時評判をとった。当時OG大竹洋子さん(映画評論家)が書評した。
『女性たちの半生を語って戦後の女性史を辿ろうというこのユニークな企画は、はじめスボーツニッポン新聞紙上に登場し、世間をアッといわせたのだった。
「スポーツ紙が?」という驚きやとまどいは、大学側やインタビューを受ける人にもあったらしい。一般紙のなかにあってさえきわめて大胆、かつ正攻法で堂々と行くこんな企画が、スポーツ記事や芸能ゴシップでその大半が埋められる新聞に登場することは、確かに人々を驚かせるにたる「事件」だったのである。 だが、その心配はすぐに杞憂とわかった。岩波ホール総支配人・高野悦子さんから始まり、彫刻家・宮脇愛子さん、劇作家・真山美保さん、国文学者・青木生子さんと続く連載は、美しい写真とあいまって他の紙面を圧倒した。
私は息をのむ思いで読みふけった。毎朝、新聞がくるのが待ち遠しかった』

他に沢村貞子、平岩弓枝、一番ケ瀬康子、妹島和世、高橋留美子、大石靜……。

毎日新聞「女のしんぶん」編集長、女性初の論説委員、日本記者クラブ賞を受けた増田れい子さん(2012年没、83歳)も載っている。ちなみに毎日新聞で一番早くに女性で部長になったのは山崎れいみさん(月刊誌『旅に出ようよ』編集長)と増田れい子さんの編集委員である。いずれも昭和54年私が取締役出版局長のとき申請して実現した。

ところが、安倍晋三政権は女性の社会進出と登用を進めるが日本の女性の地位は一向に上がらない。24年も前にスポーニッポン新聞は大きなスペースを割いて訴えたのである。私の手元に3冊『桜楓の百人』があったがいつの間にかなくなってしまった。頼まれて女性にプレゼントした。そこでネットでこの程、注文した。なんと値段が262円(定価2800円・本体2,718円)送料257円合計519円であった。世の中はおかしいと思う。今の時代この本は古本といえども時節柄もっと読まれて然るべき本である。高く売れていい。この値段は『日本の女性の地位は低い』という現実をそのまま表している。本の最後に高岡節子さんの親友であり執筆者でもある山崎れいみさんが『おわりに』を書いている。
「企画の発案者は当時のスポーツニッポン新聞社社長牧内節男氏です。1995年様々な『戦後50年史』が企画される中で『戦後女性史』の検証を紙面化すべききと考えた牧内氏はその具体案として日本女子大OGの取材を示唆しました。(略)牧内氏なくて『桜楓の百人』は生まれませんでした。深く感謝します」。

94歳の今、愚痴を言っても仕方ない。山崎さんの『おわりに』の文章を慰めとするほかあるまい。「コロナ騒動」が終わった7月にも堤君を誘って人形町の『今半』で食事でもしようかなと思っている。