諸賢人
ごんべい
曏に佐賀12賢人の徐福・佐野常民を紹介した。あの明治維新前後に、日本を近代社会に押し出すために、多くの志士が活躍したことは衆知の通りだ。幕藩体制を王政に復古し、鎖国の夢を覚ます為の荒療治には、無益の血を流す場面もあったが、多くの賢人達に依って日本は生まれ変わった。其れは西郷隆盛・勝海舟をはじめとする、全国の隠れた賢人達に負う処であった事は論を待つまい。偶々佐賀12
賢人の冊子が手に入ったので、取り敢えず2人を取り上げたのだったが、当時薩長の陰に在った佐賀藩にも、此のような賢人が輩出して、日本の発展に如何に貢献したかを承知できたのは幸いだった。今回は「義祭同盟」と、枝吉兄弟・従兄弟の島義勇に光をあててみたい。
ここで初耳だったのは、佐賀にも弘道館が在った事だ。元来弘道館とは、水戸の専売特許とばかり思って居たのだが、京都にも在った事を知って驚いて居る。更に調べてみると、弘道館(水戸)・明倫館(萩)・閑谷学校(岡山)の三つが、日本の三大学府として当時から著名だったと云う事だ。当方知らぬが仏では、面目も無い。
「義祭同盟」とは弘道館の教諭であり、国学者であった枝吉神陽が、嘉永3年(1850)29才の時に設立した勤皇結社。表向きは、楠公父子像を祀る崇敬の集いであったが、実際は尊王論を広げ天下国家の行く末を語り合う塾の趣を帯びて居た。毎年5月25日には若き志士達が集り、祭礼の後は無礼講で議論を深めたと云う。義祭同盟連名帳によると、初期メンバーには前記三名の他に大木喬任・江藤新平・大隈重信等の名前が在り、総数は350名にも及んだ。多くの志士を送り出したが、二度の総理大臣を務めた大隈重信は、「是に加盟したのが、世に出て志を立てる切っ掛けになった」と述べて居る。
枝吉神陽 は弘道館教諭枝吉南濠の長男。幼にして神童の誉高く、23才の時江戸昌平黌に学ぶ。黌の舎長をも務めて26才の時帰藩し、弘道館の教鞭を執る。佐賀の吉田松陰と呼ばれる傍ら、同志と「義祭同盟」を結成した。吉田松陰も実際に佐賀に来て神陽と会い感銘を受けた。九州に向かう友人には神陽に会う事を薦めたと云い、水戸の藤田東湖と並んで「東西の二傑」と称されたと言われる。佐賀七賢人は鍋島直正・大隈重信・江藤新平・佐野常民・島義勇・大木喬任・副島種臣を挙げるが、神陽を加えて八賢人とも云う。「義祭同盟」のリーダーとして重きをなしたが、黒船来航で世情が騒然となり、勤皇運動が藩の不利益に繋がると見られ、保守派と過激派とに分裂する事態になった。惜しむらくは、コレラに感染した妻の看病に当たったが、神陽自身も感染し、41才の若さで文久2年(1862)に亡くなって終った。
副島種臣 こと枝島次郎は、神陽6才下の弟。国学者の父南濠・兄神陽の影響を受け、早くから尊皇攘夷の思想に目覚める。俊才の兄・弟の間で劣等感に悩んだと云うが、一念発起して弘道館の首班を努める迄に成る。父が亡くった32才の時、同藩の副島利忠の養子となる。大政奉還を進めるため、大隈重信と組んで脱藩し、謹慎処分を受けた事も有ったが、明治政府の外務大臣としてマリア・ルス号事件を解決し「正義の人」として世界にその名を知らしめた。征韓論で敗れた西郷隆盛に続いて下野したが、板垣退助・後藤
象二郎・江藤新平等と愛国公党を設立し、自由民権運動の端緒となる「民撰議院設立建白書」を提出した。隆盛が日本の未来を託す遺言状の宛先に、副島を選んだことからも、いかに彼が信頼を受ける識見と人柄であったかが分かる。余技として「蒼海」の号で、多くの書をも残して居る。明治天皇からその人柄を愛され、「侍講」の職を仰せつかり、枢密院副議長・内務大臣の要職をもこなすなど、其の学識と人柄は明治の世に多くの足跡を残した。
島義勇 は枝吉神陽と同年で、前述の通り従兄弟同士に当たる。佐賀七賢人の一人だが、意外と地元での知名度は低いらしい。9才から弘道館に学び23才のとき諸国に遊学した。26才の時には弘道館の目付となり、藩主直正公の外小姓になって居る。「義祭同盟」には当初から参画して、大木・江藤等を知ることになる。直正の命を受け、2か年に亘る北海道の探検調査の後、48才の時蝦夷開拓史首席判官として北海道に赴任した。碁盤の目の様だと云われる札幌の街は、島が京都の街並みを参考に設計した。札幌開拓の父とも言われる程で、北海道に於ける地名度は非常に高いとか。筆者も札幌には5年程居て、あの50m道路は大いに気に入ったものだが、島の名前はついぞ知らずに過ごしてきた。市役所ロビーには彼の銅像迄在ると云うのに、である。其の後島は、天皇の侍従を経て初の秋田県権令となる。八郎潟開拓を志して井上馨に予算を要望し、大論争になる。先見の明を持つ島だったが、結局免官の悲運を味わう事となった。八郎潟の干拓実施が決まったのは、昭和32年の事だから島が開拓を志した時から85年の歳月が流れて居る。その彼は53
才の時、佐賀の役に参じて刑死したが、後に賊名を解かれ従四位が贈られている。