銀座一丁目新聞

安全地帯(

続 楠木正成

川井孝輔

「日本人の心 楠木正成を読み解く」として、産経新聞が平成31年1月11日より連載中の記事が、今年の3月27日に完結した。大阪陸幼時代、観心寺にはよくお参りして、縁深かっただけに毎回熟読した。千葉59会便りの10 月号に、8月30日迄の分を投稿してある。其の後湊川神社には再度の、四条畷神社には初めてのお参りをし、続く11月号に其の事を報告した。今回その連載が終結したのを機に、続編として纏めてみた。宮本雅史氏他7氏の長期間而も広範囲にわたる緻密な労作には、心からの敬意と感謝の意を表したい。

続編を纏めるにあたって、「序章2 理想に生きる」で知った建武神社を訪ねた。明治天皇の「神社創祀の御沙汰書」に依って創建された湊川神社には、何回かお参りしたものの、地方の神社を訪ねるのは初めてである。お社は港区白金の、白金氷川神社境内【1】に在った。昭和11年品川区上大崎に建立されたものがご多聞に漏れず戦災に遭い、戦後此の地に移築遷座された由。境内の一隅に立派な石碑【2】が立ち、その奥に簡素な朱塗りの社殿が二つ並び【3】鎮座して在る。左側には後醍醐天皇・護良親王、右側には楠公他南朝の忠臣が祀られてある。正成が亡くなられた5月25日には、毎年楠公祭を催すことを聞いては居た。が、此の日「コロナウイルス」の関係からか、氷川神社の社務所は閉鎖されて、残念乍ら具体的なことは何一つ聞くことが出来なかった。

之とは別に作家の「森まゆみ」さんが、毎日新聞に時々会いたくなる「クスノキ」が有ることを、紹介して居たのでこれを訪ねた。森さんは「樹木気功」と称して、このような木と会話しながら深呼吸をすると、体調がみるみる回復するのだと言う。初めて信濃町駅に下車して、絵画館に向かう。神宮外苑を囲む歩道には、ジョギングを楽しむ姿の他は余り人通りが無い。目的の楠木は絵画館の真裏に在った。真に姿の良い立派な楠木で、見に来た甲斐が有って目を見張る思いがした。明治45年(1912)7月30日明治天皇が崩御され、9月13日此処、青山練兵場で葬儀が行われた。その際に棺が置かれた場所に「クスノキ」【5】が植えられたもので、樹の横には「葬場殿址」【4】と書かれた立派な石碑が建立されて在る。

第3章 維新回天の原動力

7)正成に殉じた西郷の生涯  西郷隆盛の漢詩「湊川感懐」は、西郷が楠木正成に自らを重ねて詠んだ詩である。「王家萋棘古猶今 遺恨千秋湊水潯 願化青蛍生墓畔 追随香骨快吾心」(王家萋棘(せいきょく)古も猶今のごとし 遺恨なり千秋湊水の潯(ほとり) 願わくは青蛍と化して墓畔に生じ 香骨に追随し吾が心を快(たの)しましめむ)。又、西郷が用いた雅号「南洲」は、後醍醐天皇が「南木」の夢を見て正成を召しだしたことに、感銘した事に関係しているらしい。尚、西南の役で敗北を覚悟して決起したのも、湊川出陣時の正成の心境を想起したこと等、楠公精神が常に胸の内に有った事が窺えると、述べて居る。

8)「公」に生きた非情の宰相
維新三傑の一人大久保は、人望が厚い西郷に対して「冷徹な現実主義者」と評される事が多い。その彼が正成を仰ぐ理由は何か。彼の日記に依れば、合間をぬって千早赤阪村に在る正成の生誕地を訪ねて居る。その時正成の史跡の有様に愕然とし、「吾等同志の者が尊王倒幕の大義を唱へ、東奔西走身を捨てて天下を動かし、遂に明治維新の御代を開きしは、みなこれ大楠公の遺志を継承して臣節を淬励した・・事に依る」、然るに親しく楠公の遺跡を訪ねれば実に 此の有様であると、慨嘆したことを「大楠公奮忠事歴」が伝えている。尚大久保は予算不足の折り、個人で借財迄したと云う。彼に莫大な借財の有る事を知るのは死後の事だった。彼は楠公同様に私心無く、公に尽くして居たのだった。

9)幼少から憧れ 楠公祭の源流
真木和泉守が師事した水戸藩の会沢正志斎は、「草偃和言」(そうえんわげん)で正成戦死の5月25日を挙げ、「この日は国家に忠を尽くさん事を談論思慮して、風教の万一を助け奉るべき也」と唱え、これに共鳴した真木が楠公祭を始めたとある。真木が正成と出会ったのは、子供のころ父親から薦められた「絵本楠公記」だったという。真木は蛤御門の変で敗退して自決したが、遺言で書いた「何傷録」の冒頭に「楠子論」を掲げている由。此処にも熱烈な正成フアンが居た。久留米市の水天宮宮司は、代々真木家が踏襲して現在は28 代目だが、毎年5月25日には楠公祭が開かれると言う。

10)クリスチャンも共鳴した志
キリスト教牧師で同志社を創立した新島襄の旧邸に「嗚呼忠臣楠子之墓」の拓本が飾られて有る由。入手時期は不明乍ら、10年程米国に滞在して帰国した後も大切にして居たと言われる。同志社の資料センターの小枝弘和によると、新島が若い頃平清盛の墓前では「一拝する気はなかりけり」と漏らしたのに対し、19才の時藩船で兵庫港に寄って湊川神社に詣でた際には、墓碑の文言を読んで涙したとの話が有るとの事。開明派と理解される新島も又憂国の志士であり、正成に惹かれていたのであった。

11)新国家建設 命惜しまぬ覚悟
文久3年(1863)、坂本龍馬が師の勝海舟と共に湊川神社に詣でた事は「大楠公墓所年表」に記録がある。更に湊川にて、「月と日の むかしをしのぶ みなと川 流れて清き 菊の下水」の和歌が京都国立博物館に所蔵されて有る由。龍馬は漢詩を全く作らなかったが、和歌は数多く残して居る。「君がため 捨つる命は惜しまねど 心にかかる 国の行く末」もそのひとつ。正成が千早城の戦いなどで幕府の大軍を破り、後醍醐天皇の親政・建武の新政を実現した事は、江戸幕府を倒した後の王政復古のモデルとも言える政変と見た。志士 にとって、正成は夢を叶えたヒーローで、神格化された存在である。「船中八策」を考案した龍馬も、正成に自分を重ねた一人だったに違いない。

12)旅順攻略 敗將ねぎらう優しさ
乃木大将が水師営の会見後、日露両軍の首脳らと撮った写真が載っている。さらに小堀恵一郎は乃木の美談として、敗れたロシア軍の食料不足を知って早速に物質の応援をしているが、此れを正行の「渡辺橋の義戦」と重ねて見ている。乃木については語られる処多く、今更いう事もないが、大宅壮一は日本民族が受け継ぐ「忠誠心のモニュメント」を挙げるとすれば、楠木正成・赤穂義士・乃木希典だと書いてある。

第4章 現代に生き続ける「楠公さん」

1)ただいかめしいだけの將でなく
湊川神社が建つ地は、正成が足利尊氏との戦いに敗れ、「七生滅族」を誓って果てた聖地である。「旅客の神戸に来るもの先ず問う、(湊川神社)は那邊なりやと」は、明治の文献「西摂大観」の書き出しだが、更に「此の一語が吾人の耳朶に触れるときは頗る欣快の情を覚ゆ、是れ道義の未だ失堕せざるを思へばなり」として、維新後も正成の名が人々の心に深く根を下ろしていた喜びを謳って居る。水戸藩主光圀公の「嗚呼忠臣楠子之墓」は余りにも有名だが、長州藩も藩をあげての「楠公祭」が画期的である。写真にみられる湊川神社は戦災から僅か7年後に、全国各地からの寄進により再建されたので有った。

2)激戦の跡 人を引き寄せる力
千早神社は千早城の本丸跡標高634mに建つ。写真も載せてある。名前が先行して終ったと思える千早城だが、今に伝えるのにふさわしい神社である。神社が今の形になるのは、明治6年薩摩出身の堺県令、税所 篤が管内巡視の際に、当時「楠大神社」と呼ばれた祠が荒れているのを見て、修理を命じた事に依ると言われる。村人たちの献身的な協力で「楠氏紀勝会」を設立して顕彰活動も続いた。豪快な太い柱に支えられる現在の姿が、完成するのは昭和10年の事だという。神職の仲谷さんは「理を通す」楠公精神が薫る神社を残したい、と語っている。

3)水戸学発祥の地 受け継ぐ忠義
吉田松陰ら維新の志士たちが精神的支柱となった「水戸学」。勿論あの光圀が身をもって顕彰した楠公への思慕があったからでもあろう。当の水戸藩には正成ゆかりの地が多い。その一つが、鉾田市に在る「楠木神社」である。明治12年(1879)の創建で初代宮司は和田勘恵。戦国時代の常陸国領主佐竹氏の一族小沼義宣に跡取りが無かった為、河内国から移り住み「楠木正成の末裔」と称していた楠正継を養子にした。その17世の孫に当たる。神社の横に「遥拝壇」と呼ばれる当時としては大工事の小高い丘を造り、樹齢120年の神木楠が立って在る。光圀が明暦3年(1657)編纂を始めて明治39年迄続いた「大日本史」の編集者津田信存が、無縁の関東の地になぜ楠木神社が建立されたのか。そのいわれを「楠木神社記」に纏めて有る。 

4)鹿児島の離島 語り継がれた正行
薩摩半島から西へ約30㎞、東シナ海に「甑島」が浮かぶ。正行が四条畷の合戦に敗れて再起を期し、落ち延びて生涯を終えたと伝えられる伝承の地である。残った一族は港に近い金吾山の麓に墓を建てて代々守り続けたと云う。その供養塔のような墓石を、「楠木正行の墓」と紹介する案内板が立っている。墓の横には一族と思われる和田家の墓が在り、墓石には菊水の紋が入って居る由。四條畷に墓所の在るのは当然として、この甑島の他にも、自刃した正行の首を吉野の如意輪寺に葬ろうとして阻まれて葬られた宇治市の正行寺、足利義詮の遺言で正行の墓と並んで葬られた宝筺院等が在る。

5)幕末に生まれた 信州飯田との縁
飯田市は正成とのゆかりは無かった。慶応2年(1866)第2次長州征伐の際、飯田藩は畿内の守りを幕府から命じられた。藩士たちが目にしたのが、長州志士達が大勢お参りする「嗚呼忠臣楠子之墓」で、裏の「楠公諱正成は忠勇節烈にして国士無双なり」で始まる朱舜水の「楠公賛」であった。藩主堀親義を始め一同が魅了され、墓碑前に石灯籠を寄進、藩内には楠神社を建立した。現在は大宮諏訪神社の境内に本殿拝殿2棟が鎮座して在る。拝殿の額縁「誠忠」は昭和10年の大楠公600 年の時、湊川神社から頂いたとの事。信州を代表する名酒「喜久水」は昭和初期には正成の家紋を付け「菊水」として居た由。

6)飛騨の山里 伝わる師弟愛
江戸時代の街並みが残る「飛騨の小京都」と称される岐阜の高山。此処の山間に在る滝町は、正成が少年時代に観心寺で師事した「滝覚」の誕生地とされる。観心寺の支院である中院は楠木家の菩提寺であり、この中院で教えを受けて居た。滝覚は俗名を和田朝正と言い、鎌倉幕府初代侍所別当(長官)和田義盛の曽孫とされる。「瀧覚御房史蹟」なる書に滝覚の正成に対する師弟愛が細やかに記されて有る。正成挙兵の際に妻子を預かった事・千早籠城の際には食料支援や、負傷者の手当てをした事・正成亡き後には正行の後見役を務めた事等、物心両面にわたる支援をして、73 才で入寂したと伝わる。和田氏の居館跡近くに立つ「津島神社」には滝覚の木像が、高山市中心にある「天照寺」には正成の木像が夫々30 ㎝程の座姿で、同じ「イチイ」の木で彫られて在る。

7)小楠公 中国人留学生も尊敬
楠木正行は、桜井で父正成と別れて以来その教えを守り、11年後の四条畷では衆寡敵せず高師直に大敗し、弟の正時と刺し違えて自刃した。これより先、後醍醐天皇が吉野朝を開いた時には真っ先に駆け付けて忠誠を誓い、3年後に天皇が崩御されると、後の後村上天皇を盛り立てた。北朝の足利尊氏が正行討伐を決意したが、渡辺橋の合戦で山名・細川の軍を相手に鮮やかな勝を収める。その際敗兵が殺到したのが渡辺橋だが、渡り切れぬ山名の兵は橋から転落、或いは泳ぎ渡ろうとして溺れる者が続出した。これを見た正行がこれを救い上げた美談は余りにも有名だ。「四条畷楠正行会」の扇谷代表は、稍々埋もれ気味な正行の足跡を後世に残すべく、大阪の大学で講座を持つ。今年の中国留学生が、「尊敬する」の文言を使って正行を褒めるのを、喜んで居るとの事。

8)ゆかりなくても 守ってきた。
富山の氷見市は歌人・大伴家持の任地であった。この万葉の故地に正成を相殿神とする伊勢玉神社(写真)が鎮座する。上伊勢小学校で天皇の写真を保管する奉安殿などの施設を、撤去することになった際、地元住民の間から楠公社は伊勢玉神社に遷そうとの声が上がった。戦後に価値観が大きく変わった時期の、正成を護ろうとした数少ない事例である。「観応擾乱」の時期、直義方の越中守護桃井直常は、南朝に帰順し勢力を盛り返したが、その後の抗争で越中は北朝の手に落ちた。氷見教育百年史によると、昭和8年ごろ非常時教育が推進されるようになって「大楠公夫人」の冊子が配布されたらしい。正成を祀る神社は全国に約80 社在るが、大半はゆかりの地で、此処の場合は珍しい。

9)茨城に残る「正成の末裔」の矜持
茨城県の北部大子町上郷に「笠置山」が在る。この山の頂きに地元の人々が600年護り続けている後醍醐天皇を祀る小さな笠置神社(写真)が在る。鎌倉時代に討幕計画が漏洩して都を追われた天皇が、笠置山で見た「常盤木の夢」に依り、正成が召されて「建武の新政」へと歴史が動く発端となった。この歴史にあやかって神社を建立したのは孫の正勝で近くに墓も在る。正勝は正成三男の正儀の嫡男で、最後まで南朝の為に戦い続けたと言われ、大正4年には正四位が贈られて居る。常陸の国には南朝の足跡が多いが南朝の武将・北畠親房がこの地で活動したことが大きいと言われる。親房はつくば市の小田城で籠城中に神話の時代から南北朝の後村上天皇迄の天皇中心の歴史「神皇正統記」を綴り、東国武士に南朝参加を訴えた。又磯原町に生まれた「野口雨情」は、正成と共に自刃し正季が祖先だと子供に説き、家名を重んずる事を長男に書き残して 居るとか。笠置神社の氏子達は正勝に従った南朝武士の末裔と云う。

10)ゆかりの地 私学が伝える理念
大阪市の私立浪速学院は千早赤阪村に、校外学習施設「多聞尚学館」を持つ。施設の名は正成の幼名多聞丸に因む。廃校になった旧村立多聞小学校を購入、改修して平成21年に開設した。シンボルは校内に建つ騎馬武者姿の正成像。別の小学校に在った像を基に3Dプリンターで高さ1.5mの強化プラスチック製のもの。写真で見ると宮城前に在る、あの正成像とそっくりで立派なものである。教育を通じてしか日本は変わらない。大切なのは「歴史にまなぶ」事。日本人の心の原点を子供たちに分かりやすく説命する対象として、正成は最適の人物である。一途に公に尽くした生き方と共に、その存在が維新の立役者たちの精神的支柱になった事。戦後、希薄になった「公」の精神。これこそが生徒に伝えていかなくてはと考えます、との木村理事長の話を伝えている。

11)母子象移設 卒業生ら走った
平成10年に開校した、神戸市立六甲アイランド高校の校庭に「楠公母子像」が在る。前身の神戸市立第一高等女学校の校舎新設時に、教職員・生徒らて浄財で建立されたものだった。処が、移設時に取り残された。何れ撤去されるのでは、と憂慮した卒業生達が募金活動に奔走して無事現在の姿がある(写真)。飛騨出身の実業家加藤桂仙は、大正3年久子終焉の地を訪ねた時、荒廃の様に心痛め草庵を再建した。其の後本堂書院等の整備が進み、今日の楠妣庵観音寺となった。桂仙は正成の師滝覚坊が、同じ生まれの飛騨である事を誇にし、叔母が嫁いだ土屋氏が、正成の盟友護良親王の忠臣と云う縁から、昭和11年の母子像建立に預かって力が在った。ともあれ熱烈な楠公フアンであった。

12)幻の武将像? 東と西の縁結ぶ
平成29年茨城県に在る素鵞神社から、南北朝時代の武将楠木正家とみられる陶器製の立像が発見された。正家は正成の親族とされ南朝方として那珂市の瓜連城を拠点に北朝方の佐竹一族と死闘を繰り返したと伝えられる。神社の宮司が東日本大震災で傾いた社殿修理の為、宝物を整理して居た時の事。高さ25㎝ほどの陶器製武者像を発見(写真)。其の後台座に張られた紙片に菊水の紋と四條畷神社の押印を見つけて四条畷神社を訪ねた。「四條畷楠正行の会」の扇谷代表は、正家にしては若々しい。陶器と言うことは、型によって複数造られ関係者に配られたものではとの意見。正行か正家か?陶器の武者像が交流の無かった四条畷神社と素鵞神社を結びつける縁を生んだと記して在る。

13) 日本遺産に込めた河内の思い
昭和29年に6町村が合併し、約3万人で発足した河内長野市は観心寺を抱えて平成12年には4倍の12万人と、立派な市になった。其れが地方都市の弱みから減少気味になって来た。平成28年に初当選した島田市長の悩みは良くわかる。幸い本編の冒頭に記したように、令和元年5月(中世に出逢える街)として日本遺産に認定された。更に「楠公さん」を前面に出した地域おこしの運動は、NHK大河ドラマ化の誘致運動になって居るとの由。此処迄正成にこだわる理由は「敵」でなく、「寄手」と云う相手に敬意を払う日本伝統の考えから来ている。「寄手塚」「身方塚」は鎌倉幕府軍を迎え撃ち、幕府崩壊につなげた「千早城の戦い」での、戦死者を供養する為の五輪塔である。寄手塚を例にした、相手に敬意を払う日本伝統の考えは、自分自身を更に高めるための、
「どのような人間であるべきか」を、考えさせて呉れるものだと語って居る。

14)兵法指南「毛利」との師弟関係
明治2年2月明治天皇は勅宣を下して毛利元就に「豊栄」の神号を与え顕彰している。此の勅宣の中で元就は大江の姓で登場している。系図上元就は、鎌倉幕府の初代別当を務めた大江広元の四男季光を祖としていた。大江氏は平安時代から文人の家として知られるが、一方源義家の師として大江匡房を輩出した兵法家としての面を持つ家でもある。こうした毛利・大江両家の関係を担ったのが季光の孫、大江時親だったと云う。正成が兵法の師として河内の国加賀田で時親の元に通った事は著名だが、一方時親は鎌倉幕府の六波羅探題評定衆を努めており、一族が安芸の国に定着する切っ掛けをつくった功労者でもあった。兵法の天才正成の人物像を造形する上で, 時親が登場することに注意が必要との指摘もあり、その実像は謎に包まれている。 

第5章 戦後75年 記者たちの目に映った「楠公さん」

1) 非合理性の理由 見つける旅    安本寿久
「非理法権天」については、第二章の12項でも述べたが、正成の思想を体現した言葉である。尊氏との戦いに奮戦した正成そのものだとされる言葉は、明治維新後更に広まった。先の大戦で、特攻機に忍ばせた西陣織りの刀袋に「非理法権天」が織り込まれたのが残っている。海軍省の発注によるものだろうと、安本氏は述べる。筆者は「評伝広瀬武夫」を著した際、58期の阿南惟正と知り合い、父阿南惟幾大将の口から「楠公精神」の言葉をよく聞いたとの話を、伝えて居る。それら経験を踏まえての連載記事での正成像であった。其れは、日本人好みの悲劇の名將ではあっても、合理主義者の姿では無い。筆者の取材は此の非合理性の理由を見つける旅であったとして居る。尚西陣織りの刀袋と、正成を救ったと伝える矢伏観音の写真が載せてある。

2)小泉八雲が聞いた 「正成の歌」  新村俊武
明治3年お雇い外国人として来日したグリフィスが、歴史上の人物で最も尊敬する人はと、誰に聞いても答えは常に「楠木正成」だった。彼は私心の無い奉公心、沈勇剛毅の性格にその理由があると見た。在日4年後に帰国して日本論「皇国」を出版した。英国公使パークス、ロシア人の日本文学研究者メンドリン、英国人の神道学者ポンソンビ、ドイツ人学者ボーネル等も日本を紹介するが、いずれも正成に共感している。筆者が外人の反応に関心を持ったのは、第2章9回の「溺れる敵兵を救った正行の美談に欧米人が感動したことで日本の赤十字加盟が容易になった伝承を調べたことがきっかけだった。小泉八雲の来日は明治23年。英語教師として松江に赴任するが、「英語教師の日記から」が楠公唱歌に光を当てたと言われる。「明治唱歌の誕生」の著者中山エイ子は、其れを江戸中期の儒者浅見絅斎作の「遺訓の歌」ではないかと言う。正成を崇拝する絅斎は、「望楠軒」と号した程の人だったと述べて居るが、初めて聞く「遺訓の歌」の全文を、写真に載せてある。

3)忘れてはならぬもの、知った   大野正利
昭和43年産経夕刊で「銅像との対話」が始まった。「明治100年を考える」をテーマに明治にゆかりの銅像に文士たちが語りかける企画だ。石原慎太郎は尾崎行雄を語ったが、筆者は本連載が始まるに当たり、皇居前の正成の騎馬像に会いに行った。像は別子銅山の開坑200周年記念として住友家が宮内省に献納したもので明治33年に完成した。制作は美校教授だった高村光雲で、回想録「木彫七十年」に当時を振り返って居る。取材では正成の足跡が無い茨城県にゆかりの遺構が多かったことは意外な発見で、正成に傾倒した光圀公の影響が大きい。光圀公を祀る常盤神社に収蔵される「大日本史」の版本についての詳述があった。又信州飯田藩は長州藩と敵対関係に在りながら、維新の志士の他多くの人が湊川の正成墓碑に参拝しているのを見て、灯籠を寄進している事を知ったと記して在る。写真は勿論あの正成騎馬像である。

4)現代日本を創る力 生み出した   藤崎真生
衆知の事で湊川神社の「嗚呼忠臣楠子之墓」は水戸藩2代目藩主徳川光圀公の揮毫だが、江戸幕末には吉田松陰他維新の志士達の参詣が絶えなった。特に初代の総理大臣になった伊藤博文は神社の建立に力を尽くし、新時代を開く道を開いた。又私立浪速学院の木村理事長は平成21年、千早赤阪村の一角に校外学習施設「多聞尚学館」を開設した。希薄になった「公」の精神を生徒達に伝えたいと云う事を、取材を通じて知る。昭和20年から小学校の教科書から正成が消えている。大阪版で平成28年から「楠木正成考~『公』日本人へ」と言う連載を始めたが、翌年明治神宮記念館で「楠木正成考シンポジウム」が開かれた。雅楽師の東儀秀樹さんが15番まである唱歌「青葉茂れる桜井の…」を奏でると、口ずさんで涙する声を聞いた。筆者は富田林市の生まれの由で、地元では一貫して正成は英雄であり、郷土の誇りである事をお伝えしたい、と結んでいる。因みに、私も東儀さんの笛に聞きほれた一人である。

5)「私」を超越した精神 今こそ   荒木利宏
楠木正成の連載取材にかかわるようになって約4年になる。正成を含め源義経、毛利元就、織田信長など、知略を駆使して数に勝る敵兵を撃破した名将と謳われる人物は、日本史上幾人か存在する。然し時代を隔てて尚、生き方の指針と仰がれるまでに崇敬された人物は、正成の他に見当たらない。後世に大きな影響を及ぼした点で、正成は他の名将たちと決定的に異なる。南朝方に立つ「太平記」、北朝の側からかかれた「梅松論」の何れもが、先を見通す目を持った名將として描いた正成である。「個」の利益を追及してはばからぬ風潮が目に付く現在、「私」を超越した存在としての正成が崇敬されて居る。その姿にあやかろうとした先人たちの精神を、今こそ静かに顧みる時ではないかと、思いを深くしている心情を吐露して居る。

6)「非理法権天」の意味を探して   宮本雅史
山口県周南市の瀬戸内海に浮かぶ大津島に、令和元年11月大津島回天神社が建立された。祭神は楠木正成。大津島は先の大戦で展開された特攻兵器「人間魚雷 回天」の訓練基地が在った処で、今も回天の島と呼ばれる。基地が開設された昭和19年9月、兵舎の一角に正成を祭神とする小さな祠が安置され、搭乗員は祠に手を合わせ、楠公精神を胸に「非理法権天」を旗印にして出撃した。黒木の家族・知人宛の手紙には「大楠公」「七生報国」の言葉が多く見られ、漢文で800 字程の「慕楠記」をも残していると云う。処が「太平記」「梅松論」に正成が「非理法権天」の旗印を掲げて、戦場を駆け巡ったと云う記述は無い。正成に心酔した松陰等志士達の間でも、語られた形跡がない。何故正成の代名詞のようにして「非理法権天」が語られるのか。想像の域を出なかったと筆者は述懐して居る。そして特攻隊を語ることは、日本人論の原点を語る事だと痛感する、とも述べて居る。写真は「非理法権天」の旗である。

7)憧れ、尊敬したくなる理由
京都・嵐山の臨済宗・宝筐院に二人の墓と首塚が並んで居り、その写真を載せて在る。左側には二つ引き両紋、右側は菊水の紋。即ち足利寶筐院殿の墓と、楠正行朝臣の首塚である。前者は足利尊氏の嫡男で室町2代将軍の足利義詮。後者は楠木正成の嫡男で、正成の十三回忌を済ませた後に挙兵し、四条畷の合戦で足利軍に敗れた楠木正行である。宿敵同士の後継ぎ2人が同じ境内で仲良く並んで眠って居るのだ。寺の説明書によると、善入寺の住職黙庵は自刃した正行を惜しみ、首級をもらい受けて首塚を立てた。一方、亡母の法要を機に黙庵に帰依した義詮は、正行が同寺に眠って居る事を知り自らの死後は其の横に葬られる事を望んだと云う。義詮が没し望みがかなったのは、正行に遅れる事19年の、正平22年38才の時だった。善入寺は宝筐院の前身である。足利尊氏も利で動かぬ正成には一目置いて居たようで、自刃した正成の首実検をした後に、河内の妻子の元へ送り届けたと云われる。「逆賊尊氏」にも義の価値と重みを知る日本人の心が在ったと述べて、本連載を締めて居る。