映画「FUKUSIMA50」は必見の映画である
牧念人 悠々
9年目を迎えた東日本大震災。東京電力福島第一原子力発電所の事故を描いた映画{FUKUSIMA50}を見た(3月10日・東宝シネマズ府中)。東電の第一原発発電所の吉田昌郎所長や若き技術系職員たちが原子炉のメルトダウンを防ぐために努力する壮絶な作業ぶりに感動した。観客は「武漢肺炎」騒ぎで30名足らずであったがこの映画は今後話題を呼ぶであろう。必見の映画である。
東電第一原発事故が示した最大の教訓は『自然を侮ってはいけない』ということである。10メートルを超える津波は来ないだろうという想定のもとに安全対策が作られた。津波の高さは10メートルを遥かに超えて「全電源喪失」という事態を招来、原子炉のメルトダウンの一歩手前の危機にまで陥った。
もう一つ忘れてはいけないのは死語ともなっていた『滅私奉公』という精神が今尚生きていたということである。東電の第一原発の人々や地元消防署員や出動した自衛隊員たちの活躍によって最悪の事態が避けられた。全員家族を考え故郷を思った。避難を勧告された自衛隊は「私たちは皆様の生命財産を守るのが任務です。皆さんが避難されていないに退くわけにいきません」ときっぱりと断った。彼らは瓦礫の除去から注水活動に活動した。
全交流電源喪失は3月11日に午後3時40分であった。冷却水は減り続け刻々と原子炉内の燃料が溶け始めた。原子炉格納容器の圧力も上がり始めた。このままでは爆発しかねない。圧力を抜くベントが指示される(1号機の格納容器の設計圧力は427キロパスカル、計測された圧力は800キロパスカルを超える)。ベントとは格納容器の一部を開放して圧力を下げることを指す。この作業をすると放射能を外部に排出することになる。このため福島県半径2キロメートル圏内、ついで3キロメートル圏内避難指示があいついで発令される。
電気がこないためベント作業は手動で行わなければならい。1.2号機サービス建屋の2階にある中央制御室、当直長・伊崎利雄(佐藤浩市)は手を上げて志願する運転員をペアに組んで作業させる。高い放射線を浴び、余震と戦ひながらベントに挑む。ときの菅首相が現場を訪れたシーンもでてくる、明らかにリーダーとして現場に行く時期を間違えたと思わざるをえない。
3月12日午後3時36分1号機の原子炉建屋が爆発する。後に水素爆発とわかる。原子炉容器への海水注入は吉田昌郎所長(渡辺謙)の独断であった。官邸からの指示も聞かなかった。東電とのテレビ会議でも予め部下に表向きは指示を聞くことにするがそのまま海水注入を続けろと言い含める始末であった。結果的にはこの方法しかなかったわけである。
3月14日午前11時1分3号機が水素爆発する。けが人だけですむ。
3月15日午前6時過ぎ3号機のサブレッション・チェンバー(格納器容器の圧力を調節圧力抑制室)の圧力がゼロになった。「各班は最小の人間を残して退避」の指示が飛んだ。誰もが退避しない。そこで浅野真理(安田茂美)「あなた達には第二の第三の復興があるのよ」と声をかけた。痕には技術系の人々が残った。免震重要棟に残ったのは69名であった。海外メデアによってのちに「フクシマ・フィフティ」と呼ばれた。かくてチェノプイリの10倍という大惨時事が起こらずにすんだ。映画の最後のシーンは福島の夜の公園の満開の桜であった。ほっとする。思わず「敷島の大和心を人問わば朝日に匂ふ山桜花」の歌が口からでた。