中川船番所資料館
ごんべい
早いもので丁度一年前になるが、2月に「深川江戸資料館」を訪ねた。「江戸っ子」を自任して居ながら、昭和60年迄地方勤務をして居たことで殆ど江戸なるものに無知であった。其の反省と言ったらおこがましいが、実の処は「佐伯泰英」・「池波症太郎」の時代ものを愛読するようになってからの影響だろう。その時目にとまったのが、首題の「中川船番所資料館」の文言だった。箱根に関所の在る事同様に、河川にも関所が在っても何ら不思議では無い。が、その文言に初めて接して興味が湧いたと云うか、関心が持たれたのだが、ついつい行きそびれて居た。それにしては、随分間が開いたなと笑われそうだが、ともかく先日その念願を果たして来た。
普段の外出時には、メトロの千代田線とJR常磐線で事足りるが、この日は北千住駅で、東武の半蔵門線に乗り換える。更に住吉駅で都営新宿線に乗り換えて東大島駅で下車することになった。東大島駅は無論初めての事だったが、降りてみると前は公園で、遮るものが無く何時も目にする街中の風情とは異なる。左は旧中川の堤防で青空が大きく見え、爽快で気分が良い。この頃は転ばぬ先の杖が頼りと、のんびり歩を進める。それでもほんの5分ほどの処に目指す資料館(1)は在った。資料館の前面には当時の船着場を模した「旧中川・川の駅」(2)の看板を掲げた広場が在って、(3)に見られる案内板が立てられてある。
江戸最初の運河・小名木川が開かれました
1661年(寛文元年)中川番所ができました
現代版の中川番所をコンセプトに「旧中川・川の駅」を整備
と記された丁寧な説明があり、丁度この付近を俯瞰した歌川広重描く「名所江戸百景」が色鮮やかに、船着場の写真も載せられてあった。此処が江戸への入り口だったことが良く解る。
資料館に入館する際、受け取ったチケットにはその広重が描く「名所江戸百景」の中川口が、印刷してあって嬉しくなる。以前から珍しいチケットは、アルバムに収めてあるのだが、2冊目になった今はこれも又、楽しみの一つである。入った処の直ぐ横に田船(4)が置いてあった。小生の生まれは江戸川沿いの金町で、15歳になって幼年校に入校する迄は其処で育った。当時開発中だった国道6号線を越えると、一面の田んぼで良い遊び場の一つであったことを思い出す。だが、田船なるものを見るのは初めてで、レンコン畑にでも使うのだろうか、往時の活躍は一寸想像がつかない。(5)の順路に沿って巡るのだが、昔の庶民の部屋は説明抜きでも十分納得できる。(6)は首題「番所」の実物に近い模型であり、(7)はその板座敷である。番所は3千石から8千石の、可成り高禄の旗本が所管した由だが、実際に此の席に座るのは家臣の4~5名だったらしい。その配下に下役人がいて、実際の検問を行うわけだが、家臣小頭の判断が無ければ妄りには荷物に触れなかったと云う。
(8)は受付に置く筈の栞の代わりか、中川番所の説明書きである。説明書を参考に調べて見ると、15世紀関東の騒乱で江戸氏が没落した後、江戸城は1457年に太田道灌が平山城として築城した。平山城とは平野の中に在る山、丘陵等に築城されたもので、江戸をはじめ大阪・姫路・仙台・熊本城など近世城郭の大多数がこれに当たると云う。無論当時の江戸城とは名ばかりの小規模なもので、道灌が殺害された後上杉・北条氏等の居館として存続はしたが、家康が入府した時分には可成り荒廃していたものらしい。元来利根川・江戸川・荒川等の河川が、思う儘に流れた関東の平野部は、薄の原や湿地帯が多く特に今の江東地区は広範囲の低湿地帯であった。その様子は連歌師宗長(1448~1532)の「東路の津登」でもよく知られることらしい。尤も平安・鎌倉の往古時代から、既に年貢の取り立てや連絡の確保に向けて水路・港の整備は行われて居た。そのような時代の1590年に徳川家康が入府した訳である。秀吉から特に対東北を任せられると、家臣団の居住地確保と東北への連絡路が必要で、本格的な土地造成と共に、水陸連絡路の確保が重要課題になった。それも次第に大量の荷物移動ともなれば小さな荷船では事足りず、より大型の船が自由に動ける規模が必要になろうと云うもの。街道・水路の拡充整備は当然のことであった。特に秀吉亡き後幕府の開設で関東に腰を据えた家康は、江戸城の本格的改造をはじめ、日本橋を起点とする五街道と共に、東京湾に流入していた利根川を荒川から切り離して銚子から直接外海に流路を変えた他、隅田川・江戸川等の主要河川の流路を定め、其れ等河川の間を横断する、水路・運河の改修を、計画的に取り掛かる事になる。1594年から家康は、氾濫を繰り返す前記の河川改修を計画的・本格的に行い、現在の位置に三大河川が定着する事になるが、同時に東部に抜ける横断的水路・運河の開削をも行ったのである。無論当時も東京湾に出ることなく東北との船便は在ったらしいが、複雑な経路と狭隘な壁があった。貨物移動の需要の高まりで、経路の整備・水路の拡張が図られたのは当然で、結果として小名木川が誕生した。同時に監視の為、箱根関所と同様、水路用としての「深川番所」が最初に設置されたのだった。その後、東部現在の江戸川区地域の横断水路が整備され、神田川・日本橋川から隅田川を渡って小名木川を経、江戸川・利根川を結ぶルートで銚子に抜け、東北方面への交流が容易になったのである。整備のすすむに連れて深川番所に代わり、メイン水路の小名木川の東端で、旧中川に通じる此処がその拠点として1661年「中川番所」が設けられたのであった。(9)(10)は、当時の中川船番所前の風景画を想像して描いたもので、壁一面に張り出されてあるが、如何にも江戸時代らしい風情を醸し出している。尚1745年の時点で、関所・番所の数は53個所を数えたと記録されている。世に名高い明暦の大火を契機に幕府は、防火対策の一環として本所・深川を整備開発して,
竪川・大横川・十間川等の改修を施し、城に近い江戸の市中から武家屋敷・寺院等までをも移転させ、市中範囲に組み込ませるようになった由。その為当時の大動脈である小名木川の両岸には歴史的に見て、由緒ある建物・史跡が多く残されて居るわけで、興味深い地域である。
(11)は隅田川と旧中川を一直線に結んだ横断水路小名木川の図面。今でこそ、なんの変哲もない用水路(12)だが、当時の荷物運搬は人の往来共々に小名木川が活用されて居たわけで、今の銀座通りの観があったようだ。(13)は報道画家山本松谷が明治42年に描いたもので、蒸気船通運丸をはじめ酒樽や瓶を乗せた和船など何艘もの船がひしめき合って、明治期に入っても依然として河岸が繁盛している様相がうかがえます。と説明書きに有る通り、只々驚かされる。因みに東大島駅の次は船堀駅だが、一帯には名残を惜しむかのように、水路にちなむ地名が多く残されて居る。(14)は改めて川の駅から、船着場と荒川の下流方面を撮ったものだが、橋は葛西橋の筈。(15)の左は江戸から神田川・日本橋川と繋いで隅田川に出る河口、永代橋に近い新川付近を描いた江戸名所図会の「新川酒問屋」で、京・大阪方面からの「下り酒」と関東各地の「地廻り酒」を扱う問屋が軒を連ねる河岸の様子。右は野田の「下総国醤油製造の図」として茂木佐平治家の商号「亀甲万」を描いたもので、現在の「キッコーマン」との説明がある。(16)はチケットにも載せられた図だが、小名木川と中川(現在の旧中川)の交差点を、北西から舟堀・小松川方向を描いたもので、左下の隅に中川番所が見えます。行き交う人を乗せた船や木材を運ぶ筏のほか、小舟で釣りをしているようすも描かれています、との説明が有る。右の鑑札は「川辺一番組問屋鑑札」。裏に嘉永4年の焼き印のある、古い材木問屋のものである。(17)は猟船(りょうぶね)で、江戸前の海で漁をする猟師(漁師)が使っていた普通の船。深川や佃島(中央区)、行徳(市川市)あたりの海岸でも使われ、享和3年8月の調査では284艘も在った、との説明が有る。
此の資料館には、釣竿を可成り多く保管していると聞いていたが、意外に展示の数は少い様子。全くと言って良いほどに趣味は無いが、立派な釣り竿が展示さていたので収めて見た(18)。「まぶな竿」9本繋ぎの15尺物とある。江戸和竿は、天明8年(1788)に紀州藩の江戸詰め武士だった松本三郎兵衛が、下谷(現在の台東区上野)の広徳寺門前で釣り道具屋を開業し、「泰地屋東作」を名乗ったのが始まりとされています。竹を材料とする江戸和竿は江戸・東京の釣り文化と共に発展し、東作・竿忠・竿治・竿辰などの名人を輩出しました。が、新素材の竿が登場したことで需要が落ち、現在は竿師の高齢化や後継者不足に悩まされています。ここでは、数種類の竹を継ぎ合わせた機能美と、漆塗りで仕上げられた工芸美、この二つを兼ね備えた江戸和竿の魅力を紹介する為、当館のコレクションから選り抜きの名品を展示します、とある。
(19)「路面電車と江東」の展示があった。思いもよらぬことだが明治37年日露戦争当時、東京電気鉄道(株)が、南茅場町から永代橋を経て江東区内に路面電車を走らせたとある。其れより先「永代橋と佃島」として名所江戸百景にも出てくる永代橋が、日本初の鋼鉄製道路橋として架け替えられた事をも知った。路面電車は当初の民営から官営に移行し、昭和30年にその最盛期を迎える。一日あたりの乗客約175万人を、40
系統の路線で運んで居たが、人口の都市集中と地下鉄・バス等の輸送手段の近代化と、マイカー・貨物自動車等多種多様の混淆状態が、交通安全の観点からも座視できぬ情勢を生み出してきた。路面電車には曽って、巣鴨付近から南千住迄を試乗した他は、必要も無いままに乗ることはない。現状の交通体系の近代化は、衆知の通りで説明の要はあるまい。ともあれ、大正・昭和・平成・令和と生き続けて来た者にとって、初めて知る歴史的興味は尽きる処が無い。