樋口季一朗中将
信濃 太郎
樋口季一郎中将(陸士21期)のお孫さんの樋口隆一さんからメールが届いた(11月27日)。それには「銀座一丁目新聞の追悼録(586)をたまたま拝見しました。私の祖父樋口季一郎のことを、とても良く書いていただいており、感謝に堪えません。著者の柳路夫さまは、当時ハルビンで中学生でおられたとか、びっくりしました。もし失礼でなければ、当時のハルビンのことなど伺えたらありがたいのですが、いかがでしょうか?」とあった。さらに「本日たまたま『河村愛三』さんを検索したところ、玉稿を拝見し、内容の確かさに驚き、さらに当時のハルビンをご存じとのことで、もしお目にかかれれば有り難いと思ったしだいです。祖父は私が24歳になるまで生きていてくれたので、河村さんにも、ミハエル・コーガンにも会ったことがあります。祖父に関しては、いろいろあらぬ事をいう人もいて不愉快なので、自分は表に出ないつもりだったのですが、昨年、イスラエル建国70周年シンポジウムに招待され、エルサレムで講演をしたところ、大歓迎され、きちんと発信しないとまずいなと思ったしだいです。そこで、祖父が書き残した未発表遺稿をまとめ、勉誠出版から出す仕事を進めています。昨年始めて札幌で講演し、スターリンの北海道占領計画と北方領土問題について話したところ、ご遺族のご老人に、『初めて父の死が無駄死にでなかったことがわかった』と泣かれてしまいました」。とあった(11月28日)。12月3日樋口隆一さんとは銀座でお会いした。樋口さんは明治大学名誉教授、バッハの研究者であり、指揮者でもある。現在、祖父季一朗中将の伝記を執筆中で400ページにもなる大作で、未発表の文章もあるという。
以上のメールで初めての人はよくわからない箇所があるので本誌が樋口季一朗中将のことを書いた2016年3月1日の『追悼録」を再録する(一部省略)。
▲「ユダヤ人を救った樋口季一郎中将を偲ぶ」
樋口季一郎中将(陸士21期・陸大30期)を記憶に留めてほしい。外交官の杉原千畝さんと同じくユダヤ人数千人の命を救った軍人である。樋口中将の略歴を見ると、昭和8年8月歩兵41連隊長、昭和12年8月ハルピン特務機関長、昭和14年12月第9師団長、昭和19年第5方面軍司令官、昭和20年2月兼務北部軍管区司令官である。樋口中将(当時少将)がハルピン特務機関長の時、ユダヤ人との深いつながりが出来た。当時、ハルビン憲兵隊特高課長は河村愛三少佐(陸士30期・のち大佐・関東軍憲兵司令部総務部長)でユダヤ人とは深い人脈を持っていた。そのうちの一人、アジア地域の指導者であり病院を経営するドクター・アブラハム・カウフマン博士から「極東ユダヤ人大会をハルピンで開きたい」、許可してほしいと頼まれた。新任の樋口少将に打ち明けると少将は快諾されたばかりか可能な限り援助もすると約束された。昭和13年1月15日「第1回極東ユダヤ人大会」がハルビン市一路街にある商工クラブで開かれた。当時私はハルピン中学校の1年生であった。大会は盛大であった。出席者は東京,天津、上海、香港から2000名を数えた。各地域代表がナチス・ドイツのユダヤ人弾圧を激しく非難した。最後に樋口少将が講演した。その内容は「ユダヤの国の人々よ」で始まりユダヤ人の悲境に同情を寄せユダヤ人の優秀さを褒め、間接的にドイツナチスのユダヤ人弾圧を批判しユダヤ人に祖国を与えよ」というものであった。この樋口少将の公演の内容が新聞に掲載されると関東軍司令部の幕僚の間から批判の声が上がったが当時大連特務機関長であった同期生の安江仙弘大佐をハルピンに招いて事後の処置を依頼した。安江大佐は陸軍きってのユダヤ通であった(「日本憲兵正史」全国憲友会編)。安江大佐の存在も見逃してはいけない。昭和13年12月6日ユダヤ人対策要綱が近衛文麿の最高首脳会議である「五相会議」で決まった。これはユダヤ人の日本、満州、中国大陸におけるユダヤ人対策案で、ユダヤ人を公平に扱い、排斥しないという平等主義を謳ったものである。ユダヤ人対策要綱は、安江大佐が当時の陸相・板垣征四郎中将(のち大将・陸士16期・陸大28期)に働きかけによって策定された。
昭和13年2月、満州里と国境を接したソ連領オトポールに約2万人のユダヤ難民がフランクフルトから続々と集結した。ここは人口500足らずの町である。ナチス・ドイツのユダヤ狩りから逃れてきた人々で、上海に行くため満州国政府に国内通過を求めたが満州国側は関東軍に遠慮してこれを拒否した。難民は零下30度の寒さの中で死を待つばかりで凍死者も出た。カウフマン博士は河村少佐、樋口少将に助けを求めた。昭和12年11月、日独防共協定が締結され、陸軍の親独体制が築かれつつあった。樋口少将は駐在武官としてポーランドに居たのでナチスの強制収容所建設とその意図を熟知していた。そこで関東軍には相談せず独断で外交的処理を済ませ12両編成の列車13本をオトポールに送り込み難民を救った。満州国外交部との特別ビザの発給、満鉄総裁松岡洋右との特別列車の運行についての談判などを自らが出向いてやってのけた。この難民たちは5千人がハルピンに残り他は上海、米国へ出国した。当然ドイツから抗議が寄せられ、関東軍からも非難の声が挙げられた。関東軍に呼びだされた樋口少将は関東軍参謀長・東条英機中将(のち大将・首相・陸士17期・陸大27期・昭和23年12月法務死・享年64歳)に言う。「ヒットラーのお先棒を担いで弱い者いじめすることを正しい事と思われますか」。東条参謀長は「人道上の配慮」として不問に付した(雑誌。「正論」3月号早坂隆論文)。樋口少将の決断の裏には河村憲兵少佐のユダヤ人に対する人道愛があったことも忘れてはなるまい。
樋口中将が昭和20年8月の敗戦時,占守島、樺太で行った判断・指揮ぶりは特記に値する。すでに占守島守備隊には「停戦命令」が出ていたが、ソ連軍が一方的に奇襲を仕掛けてきた。第五方面軍司令官・樋口中将は即座に自衛のための戦いを決断し、ソ連軍撃破を命令する。日本側の死傷者600名に対してソ連軍は3000名以上の死傷者を出し戦いは日本軍有利の内に終わった。東京裁判の際、ソ連は樋口中将を「戦犯」に指名した。世界ユダヤ協会は世界中のユダヤ人コミュニティーを動かした。その結果、マッカーサー元帥はソ連からの引き渡し要求を拒否した。戦後、樋口中将は「敗軍の将、兵を語らず」して昭和45年10月、この世を去った。享年83歳であった。