憂国の志士屈原を現代に思う
柳 路夫
銀座一丁目新聞のブログに屈原のことを取り上げた(11月24日)。やや舌足らずであったのでもう少し敷衍する。ブログでは次のように紹介した。「中国の文化大革命(昭和41年春)が起きた際、マスコミは礼賛したが中国文学者村松暎さんはその運動の危険性を指摘、中国文化の存亡に関わる重大危機であると訴えた。それは屈原の言葉(漁夫辞)が意識にあったからである。屈原は「挙世皆濁、我独清。衆人皆酔、我独醒。是以見放」(世を挙げて皆濁る。我独り清し 衆人皆酔う、我独りさめたり 是を以て放れたり)と言っている」。
屈原は春秋戦国時代(前721年―前207年)の楚の王族である。楚の懐王の代に三閭大夫という重職であった。はじめ王は有能にして志操正しい彼を信任していた。そのうちその直言が次第に疎ましくなった。懐王が張儀の弁舌に載せられて秦に行って囚われの身となった後にたった襄王の時、小人の讒言で江南に流刑追放されてしまった。江南の地にあっても屈原は懐王の迷妄の覚めることを祈り続けた。その心の奥底を吐露したのが「楚辞」の巻頭を飾る「離騒」以下の詩賦である。前記の屈原の言葉は水の辺りであった人の漁夫に「何故あなたはそんなに憔悴しているのか」に質問されたときの言葉である。漁夫は更にいう。「聖人は世の中とともに動く。世間が濁ったら一緒に泥波を跳ね上げることだ。皆が酔ったら飲めなくてもせいぜい酒のカスでも食えば良い。玉のような才能を握りしめて追われることはなかろうに」。屈原。「髪を洗ったら塵をはたいてから帽子をかぶる。俺のような潔い身が濁った世の中で汚されてたまるか。流れに沈んで魚の腹の中で葬られようとも、この皓々と白い俺に世俗の塵埃をかぶるのは嫌だ」。すると漁夫はにっこり笑って歌いながら去った。「滄浪の水が澄んでいたら冠を洗おうよ。滄浪の水が濁っていたら足を洗おうよ」。
懐王が3年の囚われの後、秦で死んだと聞いた屈原は、懐中に石をつめて汨羅の淵に身を投じた。紀元前277年5月5日であった。
現代、政界に独りの屈原もいない。いたずらに長きことのみを誇る宰相に唯唯諾諾である。3年も権力の座にいたら腐敗するのに8年もいたらおかしくなるのは当然である。首相を務めた岡田啓介は「総理大臣になると3つのものが見えなくなる」といった。1つは「金」である。2つは「人」である。3つは「国民の顔」である。岡田は断言する。「3つ目がわからなくなると総理大臣はのたれ死にする」と。とすれば、「国民の顔」が次第にわからなくなってきた安倍晋三首相は“のたれ死ぬ”運命にある。