楠木正成
ごんべい
元号が改まった5月21日、文化庁は新たに16地域を「日本遺産」として認定した。中に南北朝時代の武将・楠木正成ゆかりの地として知られる大阪府河内長野市が、「中世に出逢えるまち」として在った。楠木一族と縁深い天野山金剛寺と檜尾山観心寺を中心に栄えて来た街並みが、「都市近郊にあって、中世文化遺産や景観を良くとどめた豊かな地域」として評価されたものである。昭和15年、同市千代田台に在る大阪陸軍幼年学校に入校した筆者に取っては、真に感慨深いものが在る。当時の母校は再興の途上にあって一期先輩は、東京幼年学校に仮寓してようやく新校舎に移動したばかりであった。此処での我々は第2期生ということになる。総てが
未完で、夕方には近くの汐ノ宮温泉に、隊列を組んで入浴に行ったもので、これはこれで思い出深い。校庭は滑空訓練が出来る程の広さがあり、台上からは直ぐ目の前の金胎寺山(296m)を越えて、金剛山(1125m)の山並みが見え素晴らしい景観であった。正成ゆかりの地に囲まれていたのである。
学科・訓練の他に、休日には金剛山をはじめ千早城址・観心寺等、史跡を訪ねるのも楽しみの一つであって、あの菊水の流れは同窓史「楠蔭」の紋章にも取り入れている。卒業迄に10回は金剛山に登るよう言われ,観心寺には良くお参りをした。将校生徒として大事に教育されたが、15~18才の未だ幼稚だった3年間の思い出には、特別なものが有る。
処で産経新聞では「日本人の心・楠木正成を読み解く」を、1月11日より週一回に連載中で、大変丁寧に解説してくれている。つくづく思う事は、幼年校時代の知識がなんとも稚拙であった事だ。正成を知って、観心寺・湊川神社等には行ったものの、四条畷には行かずじまいで、正成夫人の知識もゼロに近い。今回の連載は眼から鱗が落ちる思いで、毎回を熟読している。今一度湊川神社にお参りし、四條畷神社・桜井の駅をも訪ねたいと思うが、取り敢えずは今までに切り抜いた連載記事を読み直し、要約に過ぎないが纏めてみた。
序章
1) 「公に尽くす」として正成の事を紹介してある。が、同時に正成への憧れとは何だったのかとの問い掛けをして、皇居外苑に在る正成の色刷りの騎馬像を載せてある。生年不詳、1331年醍醐天皇のお召に応じ、変幻自在の戦法で元弘3年(1333)鎌倉幕府を滅亡に追い込む。建武の中興を成し遂げたが、九州に下った足利尊氏が再び東上した延元元年(1336)、これを湊川に迎え撃つたが衆寡敵せず、弟正季と自刃して果てる。享年43歳であった。夏目漱石は草枕に、日本人が美しいと感じる価値感を、正成が身をもって成し遂げたとし、その理想像が600余年もの間、願望的美談として語り継がれたと、言っている。
2) 「理想に生きる」と題した2週目の記事は、全く知らなかった「建武神社」の説明である。昭和10年5月25日水交社が開いた、「楠公600年祭慰霊祭」がきっかけで建立が決まった。昔の海軍記念日(5月27日)と混同しそうだが、5月25日は正成が自刃して果てた日で、毎年のこの日都内・白金に在る建武神社に於いて、楠公祭を催行している由。
3)徳川光圀が「嗚呼忠臣楠子之墓」の碑を、湊川に建てたのは周知だが、水戸藩では尊王論を核とする水戸学が強く、櫻田事変の烈士他多くの志士が名を連ね、茨城町の楠公社にはその名を刻んだ石碑まで在る。前期水戸学はまず天皇を尊び、次いで幕府を敬うという「尊皇敬幕」を唱えるが、後期水戸学は皇室の尊厳を強く主張し、松陰ら幕末志士の運動に影響した。日本史を作った正成への思慕深い「維新の志士たち」に就いて述べて居る。
4) 正成ほど、時の権力に都合よく利用された人物はいない。戦時下では、正成が千人足らずで数十万もの幕府軍と戦った英雄として利用され、太平記にも好評に書かれていて、教科書にも載り映画にも現れた。処がいざ敗戦ともなれば、教科書の「菊水のながれ、桜井の駅」の項が墨で塗りつぶされ、「悪しき戦前の象徴」として教科書から抹消された。戦前の軍国主義を想起させるとして、長い間タブー視されて来たのだった。
5)GHQの占領政策の為、真っ先に狙われたのが,旧万世橋駅前に在った広瀬中佐と杉野兵曹長の銅像であった。その後も次々に銅像の姿が消えたが、三州瓦の産地高浜市の高浜小学校では、残された台座に桜井の別れを描く陶製の楠公父子像を、卒業生が昭和29年に建てた由。正に「タブー」を超えて燃え続けた灯であろう。湊川神社でも、当時の衣装その儘の武者行列が平成14年から 催行されている。正成は、人々の心から消えては居なかった。
6) 「生き残った楠公精神」と題しているが、長崎県諫早市の楠公神社では,正月明けの13日に畳破りの奇祭・楠公祭が、
江戸時代から続いている。之は千早城の籠城戦を再現したもので、対戦は籠城組の楠木勢が勝つことになっている由。尚神社本庁のデーターによると,主たる神社として明治5年明治天皇のご沙汰書に依って創建された湊川神社・楠木氏の本拠地千早赤阪村の千早神社・正行が没した地に建つ四条畷神社・後醍醐天皇を主祭神とし正成を合祀する吉野の吉永神社等が著名だが、正成・正行を祀る神社は,全国で33を数える由。楠木正成が日本史の中でどのような評価を受けて来たか、明治維新以降昭和20年を境にその評価が一変した事情が述べられて在る。
第一章 時代を駆け抜けた5年間
1)
元弘元年(1331)5月、後醍醐天皇の企てを知った幕府は、天皇流罪・側近の処罰を決めて上洛を始める。天皇は笠置山に臨幸するが、夢に楠木正成の存在を知る。召し出すと即日参上し、忠誠を誓って河内で挙兵した。この時「正成未だ生きてありと聞こし召し候はば、聖運はついに開かるべしと思し召し候らへ」と言上する。聞いたことが無かったが、笠置の山は京の六波羅探題が集めた10万の軍勢にかこまれ、かなりの激戦が繰り広げられたとあり。高さ10m余の弥勒摩崖仏はその「元弘の戦乱」で失われたと云う。
2)
後醍醐天皇が笠置山で幕府軍と戦ったのに呼応し、正成も拠点の河内・下赤坂城に30万と言われる幕府軍を迎えた。説によれば、笠置を出てから僅か8日目の事で、後ろに控える上赤坂城・千早城の準備の為の前哨戦の様相があった。幕府軍は城の様子を、「あなあわれの敵の有様や。この城、われらが手に乗せて、抛ぐるとも抛げつべし。楠木が一日怺へよかし。分捕り高名して恩賞に預からんと、思わぬ者はなし」と、「太平記」に書かれたほどで、一日で攻め落とせるものと、舐めて掛かったのだった。わずか20日間の攻防とは言え、500騎の気鋭が30万の大軍をほんろうした有様を、これまた「太平記」が残して呉れている。此の時の撤退は計画的で正成自らが、替え玉の焼死体を用意して逃亡したと伝える。史跡赤坂城址の碑が、青空に向かって誇らしげに建つ写真が、載せられて在る。
3)下赤坂城から姿を消した正成は、元弘3年2月再び千早城に幕府軍を迎え撃った。わら人形・大木・大石・油などを使っての奇襲作戦で100
日間の籠城に成功し、足利尊氏・新田義貞等が討幕に転じて幕府は滅亡した。正成は金剛山中腹を中心に、「楠木七城」と呼ばれる多くの山城を築造して、自在に活用したのだった。それにしても家臣のみならず、多数領民の協力なくして出来る業では無い。標高634mに在る千早神社は、後醍醐天皇が湊川で自刃した正成を悼み、延元元年(1336)に創建した楠木社が始まりと伝えられ、明治7年再建されて同12年正式に千早神社と改名された。筆者も幼年校時代に参拝しているが、記憶が薄れた。既に城の形を留めぬ千早城乍ら、「日本100名城」に選ばれているとか。
4)幕府滅亡により、尊氏には武蔵・常陸・下総を、義貞には上野・播磨を、長年には因幡・伯耆を、正成には河内・摂津の国が恩賞として与えられ、建武の新政が始められた。此処に尊氏が義貞よりも優位の恩賞になったのは、天皇が源氏の嫡流を足利家と認めた為と云う。その足利尊氏が反乱し、僅か2年余で再び正成が駆り出されることになる。正成は幼少から、一族の菩提寺観心寺で勉学に励んだ事は良く知られるが、この項ではその観心寺に就いて述べて居る。此処は千代田台からも近く良く尋ねた筈だが、境内の様子は記憶が薄れて仕舞った。其れにしても観心寺の名は懐かしい。
5)北条氏の残党が起こした「中先代の乱」を平定した尊氏だが、将軍として命令書を乱発するなど,横暴なふるまいが出てきた。為に天皇は義貞に尊氏の討伐を命じる。尊氏の弟直義の軍を破って鎌倉に迫るまでは順調だったが、尊氏が出馬すると寝返る武将が相次ぎ、義貞は敗退して、尊氏が入京する事態になる。此処に「京合戦」と呼ばれる戦いが始まり、「一乗寺下り松」に陣を張った正成が、知略を発揮して5万もの尊氏軍を九州に敗走させた。此処は比叡山と京都を結ぶ交通の要衝で、京都の歴史にも良く登場する処とある。其れはともあれ、正成は軍略を駆使して尊氏軍を京都から駆逐したのだった。此の時「正成相聞して曰く、義貞を誅伐せられて尊氏卿を召しかえされ、君臣和睦候へかし。御使に於いては正成仕らん」と申し上たり。と意外な言動を「梅松論」(南北朝時代の軍記物語で・太平記と双璧をなす)が記して居るのだが、廷臣達は一笑に附して取り上げなかった。正成の思い切った進言で、若し之が通れば歴史が変わって居たかもしれないが、只々正成の潔さだけが残る結果となった。
6)後醍醐天皇は尊氏追討を義貞に命じていたが、時間を空費している間に勢力を盛り返した尊氏軍は、海路備後の国鞆の浦迄進出、直義軍も陸路東上しつつあった。天皇は慌てて正成に義貞への協力を命じるが、此の時も天皇に比叡山への避難臨幸と、京都での戦いを具申するが受け入れられず、僅か500騎を率いて兵庫に向かうことになった。「太平記」が戦機を逸したとするのは、義貞が先の恩賞で得た勾当内侍の色香におぼれた事を指している。これとは別に、宮廷での公家達が、武士の台頭を煙たがって、有名な「二条河原落書」を残して居る。上下一体に纏まることの難しさを、象徴するものだろう。
7)和睦案・京市街戦の戦略を退けられた正成は、「討死せよとの勅定ござんなれ」との言葉を残して湊川に出陣する。「桜井の別れ」はその時の事で、建武3年(1336)5月正行11才の時であった。この項では、湊川の戦いで敗れた父の首が河内に送られたとき、正行が取り乱して自害しようとして、母の久子から「父の教えをわすれたか」と命がけで説得された事。戦争末期のビルマ戦線では正成の遺訓を逆用し、「伝単」(戦意喪失を狙って撒く宣伝ビラ)として利用されたことが載せられて在る。
8)「寡をもって衆を制す」は日本人好みである。源義経・織田信長・真田幸村等と同様、正成は会下山に手勢僅か700騎で、50万とも言われた直義軍を迎えた。「西摂大観」など、無謀に見える戦術を批判する書もあるが、その精神性を説くのは湊川神社の宮司である。敢えて家の子郎党のみで編成した700騎で、標高85mの会下山に陣を敷いたのだった。此処は直ぐ前が瀬戸内海で、海・陸に分かれて侵攻する足利軍の動向を知るに格好の場所であり、正成の冷静な戦略的判断が読み取れると「太平記」は記し、正成の精神性と滅私奉公の人となりとが、論じられている。
9) 6時間に及ぶ激戦で、手勢70騎あまりになった正成は、後に「七生報国」の基となる、「七生滅族」の言葉を残して果てた。湊川神社の1隅に、弟正季と共に果てた「御殉節地」が残されて在る。人間魚雷「回天」の考案者黒木少佐も、「正成には及ばぬものの国難に対処する為、死に甲斐在る場所を求める」、と平泉澄に報告したとある。正成に始まる「もののふの系譜」には、私利私欲の世界では理解できない、綿々とつながる日本人の心を見る事が出来ると、この項では解説している。
第二章 時代の先駆者が伝えるもの
1) 楠木家のあの「菊水の紋」は後醍醐天皇から賜ったものとされる。天皇家紋章に用いられる菊に、流れる水をあしらったものだが、正成の手書きとされる「菊水の旌旗」が、元弘元年(1331)9月10日に、信貴山に在る「朝護孫子寺」に奉納されていた。挙兵直前に勝利祈願されたもので、この項では旌旗の意義その他が論じられて居る。此の紋章に似せて、我が大阪幼年学校の同窓史「楠蔭」の紋章にも菊水の流れが取り入れられ、誇らしく思える。
2) 「赤坂城塞群」とは、赤阪村に在った中世の山城跡の総称で、金剛山と麓との間に鎌倉幕府軍に対するゲリラ戦が繰りひろげられた舞台に残る遺跡である。前述の「楠木七城」」とも言われる巧みな築城で、地の利を生かして無駄な戦はしないという、正成の理念が生かされて在る。千早城・上・下赤坂城の三つが主だが、今では「日本の棚田百選」に選ばれた、静かな田園風景が残るのみと在る。
3) 昭和10年に出版された「古戦場物語」に千早城の備蓄に関する著述が有る。粟三万石・大豆2千石・塩5百石・その他干し魚海藻の類数知れず貯蔵と。アニメの映画にも出たと言う「楠公飯」もその一つだが、正成の籠城に際しての配慮をうかがわせるものだ。旧軍の「兵食史」にも正成の陣中食が載って居り、籠城に際し、迎撃用の準備の他に食料・水・逃走用のルート等々をも考えていたと言う。
4) 正成の幼名は多聞丸。「多聞丸大江時親に学ぶ像」が、河内長野市の三日市町駅前に平成30年住民の手により建てられた。菩提寺の観心寺で8~15才の間、僧・龍覚に学ぶ一方、智謀を育む幼年期の教育として、大江時親に学んだことを取り上げて居る。約8㎞離れた時親の邸宅迄通い、孫氏・闘戦経などの兵書を学んだというが、今では考えられないことだ。
5) 腹巻・胴丸等の武具を軽量化して費用の削減とゲリラ的な軽快な活動を図った事が窺える。正成は、単に戦略だけでなく、武具にも革命的な工夫を凝らし、金剛寺には一族の武具類が纏まって残されて在る由。
6) 書状から伝わる教養人の一面として、正成直筆の書状8通が確認されて居る。うち2通は、観心寺が所蔵し国の重要文化財に指定されている。元弘3年鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇が奥州遠征に赴いた御子の無事と、疫病の退散を祈願するため、観心寺に安置の不動明王像を京に運ぶことを考えた。その意向を汲んだ正成が書いたものだと言う。書状の写真が紙面に見える。
7)
中国古典の「大学」を、二宮金次郎は歩きながらに読んだとされるが、正成も大学を読み込んで居た、と童門冬二さんは言う。大学は人間の成長を「修身斉家治国平天下」の言葉で説く。正成は自分自身の道徳・価値観を確立し、次いで家長として家族・家を纏めることを目指した。目立つ存在では無かったが、妻久子を取り上げ、背中で教えた正成に対し、言葉で正行の成長を支えたとして、夫人を賞賛して居る。「楠妣庵観音寺」に在る母子像の写真は大変珍しいが、当の観音寺は、夫人が正成・正行の菩提を弔い、終焉の地になったと伝えられるものだ。
8)
時勢の変動激しく、力を持つ者が次々に交代した激動時代には、当然ながら右顧左眄、先ずは自らの生き残りを図る武士の多かった。その中に在ってひとたび受けた「朝恩」に報い、忠義を尽くした正成を、「智仁勇の三徳」を兼ねた人物と「太平記」は評している。単に自分だけでなく、一族郎党を挙げての事であり、しかも家臣・領民が正成に恨みの声を上げた形跡が無い。家臣の大切さを説く正成の言葉が繰り返し述べられているが、真に言うは易く行うは難きことを、貫いたものと只々唖然とするばかりである。真に「戦わずに勝つ人心掌握の方法」ではある。「太平記評判秘伝理尽鈔」は、太平記の注釈書との説明が在る。
9) 平成3年NHK大河ドラマ「太平記」で正成役を演じた武田鉄矢さんが述べて居るように、正成は「身方塚」の他に、戦った相手の戦死者を祀る「寄手塚」と呼ぶ五輪塔を、赤阪村に建てていた。而も「寄手塚」の方が大きい由。正成を敬愛する佐野常民を引き合いに出し、赤十字の理念とも重なると、紙面に説明して在る
10)
鎌倉時代の武士の行動原理は「御恩と奉公」に在って、所領の安堵が第一であった。そのような時代に、実力を持たない後醍醐天皇の為に、終生裏切らなかった楠公父子の行動を支えたのは何かを問いかけている。特に「婆娑羅三傑」の一人佐々木道誉と対比している。「地方の一武将」がお召を戴いた名誉と感激が、「正成未だ生きてありと聞こし召し候はば、聖運はついに開かるべしと思し召し候へ」を言わしめて終生変わることがなかった。観心寺での勉学の賜物だとは、誰しもが思う処か。此処では改めて観心寺を紹介している。
11) 「忠臣・義の人」と評される正成の今一つの特徴は、「献策能力と肝の太さ」と称えて居り、特に建武3年1月京合戦で官軍に敗れた尊氏が九州に在った時、天皇に「義貞を誅伐せられ、尊氏卿を召しかへされて君臣和睦候へかし。御使においては正成仕らんと申し上たり」と「梅松論」に記されて居る。正成が多聞丸と称して、大江時親の元に「闘戦経」や「孫子」を学んだ頃、良くお参りしたという途中の「矢伏観音」をも紹介して居る。
12) 正成と言えば、七生報国・菊水の文言がすぐに浮かぶが、更に「非理法権天」も有名である。この旗印が、特に戦場を駆け巡ったとの記録は無いが、此の5文字が楠公精神の象徴として語り継がれたのは、観心寺で学んだ「四恩に報いること」即ち父母の恩・天の恩・衆生の恩・宝(仏・法・僧)の恩を指すという。湊川神社には「非理法権天」の旗が保存されているが、その写真が紙面に載せて在る。
第三章 「維新回天の原動力」として正成を高く評価している。
1) 日本最後の文人画聖と言われる富岡鉄斎は、特に維新の志士同様に早くから勤皇思想に傾倒したが、特に正成を高く評価した。歴史上正成が脚光を浴びるのは江戸末期からの様だが、幕府に見切りをつけた志士達が正成の墓に参り、尊皇・勤皇の思いを募らせたと説明している。正成との思いを共有することが、志士達の願いであったのだろう。
2) 徳川光圀 「嗚呼忠臣楠子之墓」の碑文を直筆して、墓碑を湊川神社に建てたのが光圀であることは余りにも有名だ。碑の裏には中国の儒者朱舜水の「楠公諱正成は、忠勇節列にして、国士無双なり」の一節が在る由。長州・薩摩・土佐の藩士たちが京・江戸への上京時には必ず立ち寄った場所と言われ、光圀著わす「大日本史」と関連して、光圀の一面を詳しく伝えている。
3)
吉田松陰は密航の罪に問われて萩に戻されたが、旧宅の幽囚室には「三餘読書」「七生滅族」の軸が掛けられている。「三餘読書」とは一般的には「読書三余」として知られ、「七生滅族」は正成・正季兄弟が最期に意思を確認し合った言葉として「七生報国」の基になったと伝えられる。松陰は1850年8月20日長州藩主毛利敬親の御前会議の際、21才の若さで山鹿素行の「武教全書 守城」を講義した際に、「勝敗は兵家の常なれば、楠公の如き名将にても時の勢いにては、湊川の討ち死にもあるものなり」と早くから正成の承知を窺わせて居る。特に大江家は毛利家の先祖に当たる由で、大江時親の弟子正成とは奇しき縁が在る。
4) 長州藩士高杉晋作は改革派の先頭に立った。時に利非ずで、獄に投じられる事があったが、獄中での手記に、自身を「楠樹」と号して正成にあやかろうとし、不遇の我が身を正成に重ね見て世の不条理を嘆いたとある。高杉が決起を図った「功山寺」近くの旧長府尊攘堂に隣接して「万骨塔」と呼ばれる慰霊塔がある。皇国の為に尽くした有名・無名の人々を祭り、ゆかりの地域・戦跡から運ばれた石がある。松陰や晋作の名と共に、「湊川古戦場址」と刻まれた石の写真があった。
5) 桂小五郎こと木戸孝允は幼少期に頼山陽の「日本外史」を読み、正成の生き方に感銘を受けたとされる。3才年上の松陰とは共に、兵学を学び江戸遊学で親しくなったが、松陰が処刑された際には伊藤博文らと遺体の引き取りをした。一般に当時の武士は屈原・顔真卿羅中国の偉人を引き合いに出すが、木戸は日本の置かれた立場を考え、手紙に正成を尊皇の見本として引用したとされる。
6)
伊藤博文は湊川神社の創建に最も貢献した人物と、宮司の垣田宗彦氏が証言する。明治の改元を控えた慶応4年(1868)明治天皇は、「創祀御沙汰」に(楠木正成の忠義の功績は永遠に輝き、千年に一人の存在で臣下の鑑である)と賛辞を送り神社の創建を命じられた。この神社創建の源となる建白書を提出した中心人物が伊藤博文だった。其れまでの形態がどのようなものだったのかは不明だが、光圀の墓碑は正成自刃の地に建てられたと言われ、神社は明治5年(1872)に創建されたのである。